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優里の「レオ」を聴いたことがなくても

初めて、セラピー犬と触れ合う機会を持った。
知人がシーズーの女の子を二匹飼っている。セラピー犬は、人に向かって吠えないと聞いたことがあったが、確かに吠えない。シーズーを撫でること自体初めてで、とても心躍る体験だった。

以前、私が家にこもりがちだった頃、よく近所の男性が、柴犬の女の子を連れて来てくれた。その柴犬は、私が玄関に出てこないと、盛んに吠えてくる子だった。
私としては、吠えられてもいい。
だが、吠えずに、背中をのけぞらせるくらいに立ち上がって、撫でられようと背伸びする姿も、とても可愛いものだ。

犬もなかなか良いものだなぁ。
そんなことを何となく思っていた矢先、とあるミュージックビデオが目に入った。

シンガーソングライターの優里さんの「レオ」という曲だ。

レオと名付けられた犬の視点で紡がれた詞。
自分に名前をつけてくれた人のことを、大好きと歌う。
だんだんと距離ができてくる、飼い主との関係の変化。
それでも名前を呼んでほしい。
その人の耳には届かない声で。
歌詞の意味を、切々としたメロディーに乗せて聴いた時、私の両目から意図せず涙があふれた。

飼っていた動物に、寂しい思いをさせてしまったとか、我慢を強いてしまったとか、そういう悔やむ気持ちを持ったことのある人に、この「レオ」という歌は打撃が大きい。

動物は正直だ。
動物は一途だ。
動物はひたむきだ。

もっと構ってほしかったのかもしれない。
あの時、私はああいう態度で接したけど、本当はすごく嫌だった、困惑したのかもしれない。
私のことを慕って、一緒にいたいと思っていてくれたのに、裏切るような真似をしてしまったかもしれない。
生き物との、ほんのちょっとの距離ができたことさえ悔やむ気持ちというのは、まったく、きりがない。

後日、もう一度「レオ」のミュージックビデオを見た。
やはり涙が止まらず、サビまで聞いて、再生をやめてしまった。

そうして、今日。
知人宅へ伺うと、シーズーの女の子たちは、珍しくおめかしをしていた。

今日は、ひな祭り。
折しも、その子たちの誕生日でもあるそうだ。

せめて今、私と接する動物たちだけでも、うんと大切にしたい。
彼女たちに褒め言葉を浴びせ、思う存分撫でまわしてきた一日だった。


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