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『人間の建設』No.54「批評の極意」 №2〈その人の身になってみる〉

小林 特攻隊のお話も僕にはよくわかります。特攻隊というと、批評家はたいへん観念的に批評しますね。悪い政治の犠牲者という公式を使って。特攻隊で飛び立つときの青年の心持になってみるという想像力は省略するのです。その人の身になってみるというのが、実は批評家の極意ですがね。
岡 極意というのは簡単なことですな。
小林 ええ、簡単といえば簡単なのですが。高みにいて、なんとかかんとかという言葉はいくらでもありますが、その人の身になってみたら、だいたい言葉がないのです。いったんそこまで行って、なんとかして言葉をみつけるというのが批評なのです。

小林秀雄・岡潔著『人間の建設』

 年表によると岡さんは、1901年(明治34年)の生まれ。小林さんは、翌1902年(同35年)の生まれです。ぼくの親世代よりさらに一世代以上の開きがある計算です。

 祖父は私の少年時代に他界して、父から「大東亜戦争」(太平洋戦争)のことを聞いたのも断片的です。特攻隊の話を聞いた記憶もありません。本で読んだりテレビの特番でみただけです。その父も、もういません。

 特攻隊員の心境とは、どんなものだったでしょうか。父母や身近な人たちを守りたい、この戦争で犠牲にしたくない、そのためなら自分の命を賭しても悔いはない。私の知識と想像力の限りではそのように思います。

岡 そうですね。批評というのは、これは悪いということは言えても……。
小林 ええ。
岡 これはいいということも言えないし、どんなふうにいいということも言えない。
小林 そういうところを経験してから、批評をはじめるということ、経験しないうちに批評的言葉が口に出てしまうというのとは、瑣細ささいなことから天地雲泥うんでいの相違になって行きます。

 批評家のありそうな立ち位置としては、無謀な軍事作戦や無能な政治の犠牲者とみる見方や、国のために喜んで死んでいったという見方などがあるでしょう。これを隊員の身になって考えるとどうでしょうか。

 当事者として特攻の青年たちの心情の向く先は、死を賭してでも、是が非でも守りたかった家族であり、朋輩だった。自分が犠牲者だという見立てや国のためという心情は、あったとしても二義的だったのではないか。

 小林さんや、岡さんは世代的に、戦争に召集される世代より上で実戦経験はなかったと思われますが、当時を生きた人間として生中な批評に対しては毅然として言いたかったのではないか、と思うのです。

岡 欧米人には、帰するがごとしという死に方はできないのです。
小林 どうしてそれをお悟りになったのですか。
岡 私は数え年五つのときから中学四年のときに祖父が死ぬまで、他を先にして自分を後にせよというただ一つの戒律を、祖父から厳重に守らされたのです。……私の祖父のような家庭教育が私たちのころにあったということは、そのころ全体にこういう傾向があったということかもしれないと思いますね。死をみること帰するということは、なつかしいから帰るという意味です。

 かつて京大人文研のグループが一世を風靡していたことがありました。東洋史の貝塚茂樹、仏文の桑原武夫、生物学の今西錦司、哲学者の梅原猛、評論の梅棹忠夫など。かつて私も著書に親しんだことがあります。

 この対談を読んでいて、その京大人文研、いわゆる新京都学派を盛り立てたひとり、哲学者上山春平うえやましゅんぺいさんのこと思い出しました。著書も少し読んだことがありますが、また読んでみたいなと思いました。

 上山さんは、特攻隊のひとつ「回天」いわゆる人間魚雷の搭乗から奇跡的に生還したひとです。特攻に命を賭そうとした青年の心情、帰するがごとし、を汲み取ることが出来るでしょうか。

 

 

――つづく――


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