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『人間の建設』No.44 「数学と詩の相似」 №1〈ヴィジョンの《ひらめき》〉
小林 岡さんのお考えは、理論とは言えない、ひとつのヴィジョンですね。私はたいへん面白いと思います。お書きになるもので大体わかっていましたが、一つのヴィジョンです。……たとえばね、あなたは、子供がまず順序数というものをつかむと言う。それから全身の運動を繰り返して、一という観念をものにすると言う。私は児童心理学というようなものには不案内ですが、そんな学問が、今なにを言っていてもいい。あなたのヴィジョンはたいへん美しくおもしろいと思うのです。
岡さんの著書で読んだ、あるいは奈良まで来て直接聞いた「情緒論」に、小林さんが感銘を受けた様子が伝わるお話です。感動と言っていもいいくらいに。
それを小林さんは、ヴィジョンと呼んでいます。岡さんのオリジナル、それが当時の学説や世の中の潮流とは一線を画す、たとえ異端のようであってもいい。なぜなら、美しくおもしろいからだと。
岡さんのヴィジョンが一番よく現れているのは数学の仕事だろう。専門家ならこれが情緒だとそこを指摘できるのに、自分には出来ない、でもそれでいい。「ヴィジョンの閃き」を感じられれば、と小林さんが言います。
小林 それからもう一つ、貴方は確信したことばかり書いていらっしゃいますね。自分の確信したことしか書いていない。これは不思議なことなんですが、いまの学者は、確信したことなんて一言も書きません。学説は書きますよ、知識は書きますよ、しかし私は人間として、人生をこう渡っているということを書いている学者は実に実にまれなのです。そういうことを当然しなければならない哲学者も、それをしている人がまれなのです。
岡さんの著作における著者としての矜持や姿勢を小林さんが称揚する場面です。物事における自らの経験や、洞察により得たものに基づく確信をあらわすということ。それは学説でもなければ、借り物や、人の意見でもない。
それに対比して当時の学者の著作の内容に対して厳しく批評しています。学説や知識など、つまり他人の成果物の紹介・翻訳といったことがほとんどだと。リスクを取らない無難な道ばかりなぞっていると言いたげです。
小林さんは、その人の確信が現われていないような文章は、知識としては有益だがそれらを読んでもおもしろくないと言います。思うに、これはもっともな話だと思います。
小林 ……岡さんの文章は確信だけが書いてあるのですよ。
岡 なるほど。
小林 自分はこう思うということばかりを、二度行ったり、三度目だけどまた言うとか、なんとかかんとか書いていらっしゃる。そういう文章を書いている人はいまいないと思ったのです。それで私は心を動かされたのです。
岡 ありがとうございます。どうも、確信のないことを書くということは数学者にはできないだろうと思いますね、確信しない間は複雑で書けない。
岡さんが書いていること、執拗とも思えるほど繰り返していることは、「確信」ということが大本になければできない。小林さんがそれに心動かされたと。
ここで岡さんは、素直にありがとうと小林さんに感謝を述べています。岡さんにすれば小林さんという、稀有な一人の理想の読者をここに得た気持ちがしたことでしょうね。
専門分野や表現方法こそ違えど、おふたりが思想の根底においては同志なのだといって良いかもしれない。
このあとも縦横無尽な会話が続いていきます……。
ーーつづく――
※mitsuki sora さんの画像をお借りしました。
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