『人間の建設』No.52「記憶がよみがえる」 №3〈なつかしさと記憶〉
この小林さんの発話は、前段の末尾で岡さんが語った「懐かしいという情が起こるためには、もと行った所にもう一度行かなければだめです。そうしないと本当の記憶はよみがえらないのですね」を受けた言辞です。
「不易」は一般に考えられている、固定した価値観のようなものではなくて、詩人の直感であり、幼児のときの思い出に関連していて、そこに立ち返ることを、芭蕉が不易と呼んだのではないかと小林さんは言います。
「「一」という観念」の章でした。赤ちゃんに鈴の音を聞かせる。初め振ったときは「おや」という目の色、二度目のときは遠い昔を思い出すような目の色をする。それが懐かしさの淵源という岡さんのお話を思い出しました。
印象主義のことを小林さんは復古運動と述べています。たしかにルネッサンスしかり、バロックしかりで、何か新しいことをしようとすると、一つ飛ばした前の時代の価値観や嗜好に惹かれるのが人間のようです。
小林さんは、「原始的時代」が記憶の中にあり、何かなつかしさを思い出させ、自分の心の構造自体に結びついているのだと言います。母の胎内で一定期間はぐくまれる人間のありようを、わたしは連想しました。
そんなことで、小林さんがここでは大いにしゃべります。「そこ(原始的時代)に帰り。もういっぺんそこにつ(浸)からないと、電気がつかないことがある」と表現する小林さん。イメージは正に母の胎内のようです。
ベルクソン、また出てきましたね。小林さん、ベルクソンにかなりな信頼をおいていますね。脳と記憶の関連についての話で私が思いだしたのは、トルストイの『人生論』の一節です。話が横道にそれますがご容赦を。
「第三十二章 人は、自分が決して生まれてきたのではなく、常に存在していたのであり、現在も未来もずっと存在しつづけるということを認識するときにはじめて、……人は自己の不死を信ずるようになるだろう。」
トルストイは、人間の不死を信じており、この世の生は短い通過点に過ぎないと喝破しました。大いなる生もまた記憶を伴うのならば、本当の記憶は脳の記憶よりもはるかに広大であることが導けます。
――つづく――