『人間の建設』No.48 「はじめに言葉」 №3〈言葉と方程式〉
私など素人が思うに、数学の論文などはほとんどが数式でところどころを文章でつないでいるという構図を想像します。ところが岡さんによればそれは違うということです。たいていが文であると。
論文と比較対象にはならないとはおもいますが、数学で身近な書物といえば学校時代の教科書。とはいっても、もう残っていないので確認しようもありませんし、どんな記述のあり方だったのか記憶も薄れています。
小林さんの抱くイメージも、私とその点では大差なかったかもしれません。それと、文とはいっても小説や評論文ではないのだから、おのずと違った書法や文法や用語が入っているのではないかと思ったわけですね。
ここで興味深いのが「符牒の文章」という言葉です。数学の素人はふだん数学者の論文を読まないので、仮に読んでもどれが地の文章か、符牒の文章かも分からないでしょうね。数学者が読んだらわかるのでしょうが。
書くこと、文字にすることによってこそ考えられる。あるいは人に喋ることによって。ひとりごとでもいいですが。これはよくわかる気がします。その過程でより思索が深まっていく。あるいは広がっていくのですね。
言語の介在なしにイメージがパーッと頭に浮かんで、それがいろんなパターンで展開することはあるでしょう。絵画のように視覚化することも可能でしょう。でも、それを思索とは言えない気がします。
「着想」、英語で言えばアイデアやインスピレーションと呼ばれるのでしょうか、これも言葉ですかと小林さんが問います。岡さんが肯うように、方程式がいきなり浮かぶようなことではないのですね。
発想・着想・思いつき・ひらめき・啓示などは言葉すら介在しない一瞬の経験のようにわれわれ思うかもしれません。本当にそうならすごいですが、案外地味な言葉・思索の積み重ねなのではないかと思います。
アイデアの素晴らしさに眩まされたり、プロセスの最後だけが過剰に印象付けられたりすることで、脳が一種の幻想を描くのでしょうか ……。おっとっと、これ以上話が逸れないよう私説はこの辺までに。
ーーつづく――