『人間の建設』No.20 科学的知性の限界 №3
話が前後しますが、前段で、ベルグソンとアインシュタインの衝突ということで会話がありました。時間の概念が、物理学と普通の人間とでは異なるという話でした。
小林さんが、いわば常識の言葉では翻訳不可能になってきた科学の進歩がどいうことなのかを岡さんに問います。
岡さんは、当時(1960年代)の数学の発展に関連して次のような話をします。
ここからさらに岡さんは言葉を継いでいくのですが、少し専門的な内容に踏み込まれていきますので、難解の度が深まります。(※1)
いずれにしても、岡さんが言いたいことは、証明によって示されるような知性・論理では理解できることであっても、人間というものは感情抜きには納得しない生き物だということでしょう。
小林さんが、その感情について岡さんに問います。「いまあなたが言っていらっしゃる感情という言葉は、普通いう感情とは違いますね」と。
その問いに対して岡さんが「だいぶ広いです。心というようなものです。知ではなく意ではない」と答えます。
岡さんは「知情意」を意識して言われたと思います。「知ではなく意ではない」ということは「情」の出番ですね。
そのあとにつづくのが冒頭の会話です‥‥‥、ふりかえると。
・常識は、感情をもとにして働く(小林)
・感情の満足と不満足を直観といい、それなしには情熱はもてない(岡)
で、次の会話へと継がれていきます。小林さんの「わかりました」と、岡さんの「そうなんです」がなんどかやり取りされる場面で、印象に残りました。
前節以来の、岡さんが憂えて言う「数学の抽象化」「実在からの離反」「無明」などの意味が、「感情(=心)」という言葉によって、ようやく、われわれにも「わかる」ものに近づいたように感じます。
数学であれ、芸術であれ、また何であれそれが人間の活動である以上は「知情意」のバランスを極端に欠いては成り立ちえないのでしょう。
――つづく――
※1 新潮文庫版『人間の建設』注解に「‥‥‥コ―ヘンは、この対談の2年前の1963年、相反する二つの仮定に矛盾が無いことを示していた」とあります。これを私なりに調べたのが下の記述です。ただし、その意味は⁇です。
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