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「選ばれる私」から「選ぶ私」へ

「成人式やらなくていいから、二十歳の誕生日を迎えるために、ニューヨークまでの旅費を出して欲しい」

 二十歳を迎える年、成人を自分なりに祝わせて、と家族にお願いした。当時の私は、アンチ・右習え慣習だったので一生に一度のそれを「みんなと同じ」で選びたくなかった。成人式の振袖や写真撮影にかかるお金で、初めての一人旅をしてみたかった。東京以上にインパクトのありそうな街はニューヨークの他に浮かばなかった。授業をサボるのも、クレジットカードを作るのも、一人で行き先を決めるのも、初めて。お酒を飲むのも、夜の美術館に行くのも、アップルサイダー片手にベンチで見知らぬ爺さんと話すのも、初めて。爺さんは、なぜ自分がニューヨークが好きで暮らしているのかを話してくれた。初対面の相手、私もなぜここに来たかったのかと語った記憶がある。あれほど勇気を出した選択は、後にも先にもなかったが、自分で選択をしたことはとても気持ちの良いことだった。

 しかし、そんな勇気ある選択をしたのは束の間で、就活を機に右習えの慣習に身を落とした結果、私は私の選択を放棄するようになった。うまくいかないことの連続を自虐して笑っては、小学校からの親友に「あんなに個性を大事にしていたのに、変わってしまったね」と呆れられてしまった。それでも仕方ないじゃない、私をジャッジする人たちに合わせないと、この社会に迎え入れてもらえないんだよ。

 でも、ジャッジしていたのは他ならぬ私自身だった。「私はこういう人間だと思われているのだから、こう振る舞え」と。だから、気づけば20代、選ぶことなど放棄して、選ばれることにこそ ”自分の価値” があると思い込む人間になっていた。就活も、人間関係も、仕事も、居場所が欲しい自分と求められる自分を調節した。それはさして難しいことでもなかった。

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 今、私は縁あって個性を押し殺さない人たちと仕事を共にしている。ただこの場所では、選ばれるのを待っていても何も与えられない。他人軸でジャッジされることすら無い。たしかに選ばれることは嬉しかった。しかし、それは稀なことで、選ばれない時間の方がはるかに長いと学んだ。選ばれ続けない人生はこの世界に自分の居場所はないような気分になるし、家庭環境や就職活動、人間関係においても影を落とす。どうせ私は選ばれない人間だしって拗ねているのは、それはそれで気持ちがよかったりする。でも・もう・いらない。

 だから、年始に立てた抱負は「選ぶシーンを増やす」 。平たく言えば、自分で決める的なことなのだけど。選択肢が増えまくった世の中で生きる私に必要なのは、選択肢の中にないものすら選び取る勇気。転んだり孤独になることの痛みにひとりで立ち向かうには、誰かのせいにできない選択が必要なんじゃないかと思い始めた。

 小さなことでも自分が選び取る体験を増やしたい。時間とお金の使い方、人との関わり方、仕事の取り組み方。メジャーじゃなくても、差し出されたメニュー表に載っていなくても、選択にこそオリジナリティがある。「私が私である」というのは積み重ねた選択の結果。選ばれる自分じゃなくて、選ぶ自分に価値を見出そう。他人が決めた自分から解放されて、本当の自分と向き合えるように。あの日、アップルサイダーを飲みながら、「私の好きなこと」を語らった二十歳の私のように。

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