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分析的アンチワーク哲学②


①哲学チャンネルのアンチワーク批判に対する分析的アンチワーク哲学による反批判

・貨幣経済や資本主義には、無かったことにしてはいけない進歩もある。それらを捨てることなく、貨幣経済や、資本主義から「労働=他人により強制される不愉快な営み」を無くした仕組みを作り出すことができる。現在の貨幣経済や資本主義に存在する「労働」はほとんどが不要でかつ有害であるため、これ廃絶をしたほうが社会が良くなることを強く主張する。これは無かったことにしてはいけない進歩をより活かすためであり、その進歩を捨てることを意味しない。

・人間の善性を鑑みて、アンチワークな法律やBIなどの「真の正しさ」さえあればなんとかなるとの希望的観測を主張する。むしろ、現在はやりたくないことを多くの人がしているため、この善性が抑えられていると主張する。真の正しさとは、「労働」を縮小するための許容可能な「労働」である。
→このため、人に害を及ぼす行為を禁ずる法律、例えばパワハラやあおり運転などは他の法に対して相対的に厳罰化を進め、ニートへの差別撤廃を訴えるかも知れない。

・この「労働」のうち、人間の善性を支援する性質のものを「サイキングアップ」と定義した。これは例えば、ある問題意識の提起や、注意・関心を向けさせることによる「労働」の削減と、生産活動の支援である。ようするに、人間の善性に対するガイドライン的な役割となる。

・資本主義の上位プレイヤーはFIREによって、自らがステークホルダーを支配することで、実質的に被支配されることから逃れられる。BIはこれを容易にする。これまでの資本主義の仕組みでは、本来「労働」から逃れやすいはずの資本主義の上位プレイヤーほどに多くのステークホルダーを抱え、「政治活動」が増え、よりお金や職を失う恐怖に駆り立てられて、むしろ「労働」しなければならなかった。これが資本家自身を苦しめていた。これを解決するにはBIを導入し、彼らに「労働」を強いる社会的圧力を無くす必要がある。

・BIは数あるオプションの一つである。アンチワーク哲学の本質はある社会や組織を構想・構成するときに「労働」を前提としなくてよいこと、オッカムの剃刀にあると考える。

・アンチワーク哲学は、強制を前提とする旧来の価値観からコペルニクス的転回を起こしている。この有用さはBIが配られずともあらゆる組織や社会で今この瞬間から有効活用ができる。

・人を経済的不安から解放するだけでなく、人間関係的/同調圧力的な脅迫・権力的な脅迫・劣等感的な脅迫を、このオッカムの剃刀や「サイキングアップ」によって縮小を目指す。

・アンチワーク哲学は「労働」が生じるどの範囲のどの社会を救うこともできる。しかし、その都度その範囲の社会と、「労働」を無くすために必要となるより小さな「労働」を想定して、「真の正しさ」を構築する必要がある。これは「労働」が真に必要であるというよりは、旧来の「労働」の価値観を一瞬で一新することはできないから、その暫定措置として用いられる。今の日本社会ではBIがこの「真の正しさ」に位置する。社会が変わればBIも不要となる。これはティール組織におけるルールに近い考え方だと捉えれば分かりやすいだろう。

このとき、以下の順で議論が行われる。
①「労働」を前提としない組織や社会を想定する。
②これと、現在とを比較する。
③その「労働」を減らすための「労働」を想定する。「真の正しさ」を実行するための方法を検討する。

①つまり、人生を丸々遊ぶことを大前提とし、「労働」は不要を前提とするほうが、必要な論理を少なくでき、組織や社会をより効率的かつ、簡潔に構築できる。このコペルニクス的転回こそがアンチワーク哲学の中心である。
②しかし、今の社会が強く「労働」に基づいたシステムである。その問題の中心には、働かざるもの食うべからずといった害をなす思想があるから、
③まずは社会的な生殺与奪の権利を奪われた状態を解決するためにBIを導入しようという話である。

アンチワーク哲学は、本来は功利主義の全体幸福どころか、その根底にある倫理(功利主義&義務論)から演繹されて当然どころか、ただのトートロジーである。

自己決定理論から、他の条件が同じ時「①他人により②強制される③不愉快な④営み(行為の継続・反復)」はどれか一つでも異なるほうが人は幸福である。他の条件が同じ時、これのどれか一つを無くすことがアンチワーク哲学の目的であるとすれば、これは功利主義の最大多数の最大幸福どころか、より根底にある倫理である。というのも、トロッコ問題でより多くの人を助けるのが功利主義だが、1人と0人では議論の余地がないからだ。それは功利主義ではなく倫理の根底である。アンチワーク哲学の原則はこれら倫理のトートロジーに過ぎず、強いて言うならば確信犯的にこれを指摘しているに過ぎない。

医療倫理の4原則
自律尊重原則
:他者の自己決定を尊重する
善行原則:他者の幸福を尊重する
無危害原則:他者に危害を及ぼしてはならない
公正原則できる限り、問題の根本的な解決を図る
※ここでいう公正とは平等、公平が解決しようとする課題を根本的に解決することである。

医療倫理の4原則は、アンチワーク哲学+根本解決BI
のトートロジーではないか??

アンチワーク哲学は、現在の倫理が演繹すべきことに対して機能不全に陥っていると指摘する。

※全ての人が公正なパラダイスみてぇな国家を作りてぇ

・アンチワーク哲学は功利主義の機能不全を修正する立場である。
※もし倫理の根幹や、功利主義が機能不全に陥っていないのであれば、オッカムの剃刀からアンチワーク哲学は削ぎ落とされる。それ功利主義でよくね?である。

しかし、功利主義は帰結主義であり行為と幸福に対する考察へ弱みを抱えている。このことが機能不全の原因だとすれば、アンチワーク哲学はこれを修正する立場である。とはいえ倫理の根幹から見れば、反「労働」に対して考察への弱みも抱えていないように思う。

・資本主義のスキームによって世界全体の生活水準が向上していることは間違いない。産業革命直後と比べれば、労働時間も縮小し、今では職場での暴力や恐喝は職場以外と差なく扱われるようになった。

・しかし、資本主義では本質的に解決されない不要な苦しみがあることを指摘し、資本主義の修正を目指す。最終的に貨幣経済や資本主義からの脱却を指向するにせよ、現時点ではBIを主張する資本主義である。これは俗流の経済学ではなく、特に経済学の中心的な議題である。

・全世界の貧困層を考慮してなお、全ての人が金銭的不安から解放される仕組みはグローバルベーシックインカムである。これの実現可能性を否定する場合も、アンチワーク哲学が倫理の根幹のトートロジーならば、このコペルニクス的転回の有用性は支持は揺らがないと思われる。

②分析的「サイキングアップ」

自己決定理論は、外部のサポートや指導が「自己選択感」を支えることで自律性を支援する場合を認める。たとえば、ガイドラインや方向性を示すことは、自己決定理論からすると有益である。一方、リアクタンスでは、その時点で自由が制限されていると感じられた時点で反発が生じることがある。

この自己決定理論のプラスがリアクタンスのマイナスを超える場合が「サイキングアップ」である。

自己決定理論と心理的リアクタンスの統合は今まさに進みつつある分野であるという。この詳細がアンチワーク哲学には欠かせないと考える。

③私からのアンチワーク哲学批判

・縄文人などほとんど暴力の痕跡がない原住民を認める一方で、暴力を振るう原住民が太古から存在している(という証拠を出している人達がいる)。彼らの殺人による死亡率は第二次世界大戦中のヨーロッパとは比較にならないほど高いとの指摘がある。
 人間の本質とは『Humankind』が指摘するような善だとするならば、これは同書が指摘するような誤りや詐称か、特段何かの理由があると考えられる。

また、縄文人は基本的に善良であった証拠が多くあるにせよ、健康的な歯を抜くといった風習が存在し、これも現代人からすれば辛い「労働」に映る。
これは善性で行われていたとはいえ、当時の人も苦痛には感じていただろう。
※これには歯科医師からの反論もある。

結局のところ、貨幣経済や資本主義の成果を残した状態で「労働」を前提としてこなかった彼らの時代に戻すことで、健康な歯を抜かなくてもいい「労働なき世界」を達成できるとここでは考える。

縄文時代後期から弥生時代前期には、健康な歯を抜くという風習があったそうです。その理由として①成人になるための儀式②結婚③喪に服す④死者のよみがえりを願って⑤悪霊を追い払う―などが挙げられます。その際、主に上あごの前歯や犬歯を抜いたそうですが、健康な歯を少しでも残そうという現在では考えられません。

よ坊さんだより・125 抜歯にまつわる昔話①
https://www.kda8020.or.jp/citizens/yobousan/3012#:~:text=縄文時代後期から弥生,では考えられません%E3%80%82

縄文人たちが抜歯を行ったのは、
上顎の左右の「犬歯」を下顎骨の成長時期に抜くことで、

臼歯群の異常咬耗を発生させ、
「動物の皮をなめす」などの作業に適した歯や噛み合わせを手に入れていた。
これが、歯科医師として私がたどり着いた結論です。

歯医者の考える「縄文人の抜歯の理由」
https://arise-dental.com/recruit/blog.php?id=113
20世紀にヨーロッパとアメリカで男性が
人間に殺害された割合は上記の原住民の比ではない。
……これが『Humankind』が指摘するような
捏造でないのだとしたら。

暴力の減少はフラクタル現象です
1:59 - 2:02
これは数千年 数百年 数十年
2:02 - 2:05
そして数年のスケールで観測できます
2:06 - 2:08
16世紀の理性の時代の始まりが
2:08 - 2:12
転換点だったようです

このように考えると、今の社会にある「労働」とはプトレマイオス的反転である。この反転がどこで起こったか、いつ終わらせられるかは考えたい。とくに、いつどのような経緯で終わらせられるかだ。

かつての人間の問題点も認めつつ、『Humankind』のように両方から検証しながら、これらの問題点の転換となった経緯と、新たな問題を引き起こした経緯には注目したい。

この転換点こそアンチワーク哲学なのではないか?
また、アンチワーク哲学から、これらの民族文化の違いをアンチワーク哲学から説明できないだろうか?このイメージについては、どの見解を出しても、アンチワーク哲学自体を揺るがすことはないから、おまかせしたい。

現に、パプアニューギニアの民族史をひもとくと、第二次大戦前まで弓矢と槍(やり)を使った攻撃で4~5 人の死者が出るのは日常的なことで、それに対するリベンジも日常のことでした。

実は、こうした歯止めのない、集団による血讐(けっしゅう)は人間以外の動物には見られないことなのです。それでは、戦争は人間の本能に根差すものなのでしょうか。私の考察はその逆で、社会組織や宗教生活の存在なしに戦争は起こらないし、戦争は決して恒常的制度ではなく、戦争の要因が日常的に存在しているに過ぎないと考えています。

プロローグ:歴史の変化を読む③ 前編 個人間の争いから集団間の争いへ
https://www.waseda.jp/inst/weekly/academics/2016/05/13/5060/

私たちは戦争について、政治経済的利害が原因で敵味方に分かれるものと考えがちです。しかし、未開社会の戦争を知れば、それが戦争を生んだわけではないことは明らかです。戦争が親族意識や宗教意識の違いから生まれ、人々の氏族的エトスによって主導されてきたものだとすれば、仲間の枠組一つで社会は好戦的、平和的のどちらにも変わるはずです。


https://www.waseda.jp/inst/weekly/academics/2016/05/20/5089/


ここから、アンチワーク哲学は、現代の「労働」というある種の戦争状態を歴史の転換点とすることができると考えている。

・16世紀に転換点となったことに注目。

アンチワーク哲学は、現時点と今後の方針を考える
哲学であり、太古の昔の人間がどうかは人間の本質が善性であると伝えるための副題であり、議題の中心ではないと思われる。

極端なことを言えば人間全員が性悪説だったり、サイコパスやソシオパス、戦闘民族でも、自己決定理論と心理的リアクタンスが働くのであれば、アンチワーク哲学は揺らぐことはないと考える。

その組織や社会を構成する人間の性質を問うことなく、全ての「労働」は無ければ無いに越したことはない。つまり、社会によって暫定的に必要とするBIなどの「真の正しさ」が変わることはあっても、「労働」ゼロベースで考えることの効率性や有効さは揺らぐことがない。

とはいえ、16世紀の理性の時代、つまり大陸合理論と、イギリス経験論が起こったことが、暴力の縮小を起こしたとこの主張に則り捉えるならば、アンチワーク哲学はこれらの時代を超えて、新たな理性の時代をもたらす主張としたい。

④新たな理性の時代

そこで、分析的アンチワーク哲学の結論はこうだった。

①ある組織や社会を考えるとき、命令や強制を前提とせず、ないほうから考えよう。そっちのほうが「労働」を防げるだけでなく、議論を節約できる。

②全ての「労働」を生じる社会通念は、他人に「労働」させない限りにおいて、なくした方がいい。つまり、アンチ「労働」なルールやモラルが社会や組織維持には必要だが、他のルールやモラルの効用を疑う。

③これまでの哲学は、非常に古いものから新実存主義など新しいものにかけてまで、社会における「強制」を前提としてきた。これら哲学に対して、強制を不要とし、0から考えるようパラダイムシフトを迫る。単純にそっちから考えたほうが効率が良い地動説だからだ。

⑤分析的アンチワーク哲学:アンチワーク哲学という地動説について

分析的アンチワーク哲学:アンチワーク哲学という地動説について
アンチワーク哲学は、単に労働の定義を生産活動から強制に定義を変換しただけのものではない。アンチワーク哲学は、社会の中心を強制から内発的動機・貢献欲に変え、強制のない状態を社会の基本している。また、貢献欲と社会に必要となる生産活動を関連付けている。各生産活動は、貢献欲によって実行される。同様に、家事や育児、ボランティアなども賃金があるかどうかの評価を前提とすることなく何が社会に本当に必要かを想定できる。

これが、「労働」の天動説との大きな違いである。
「労働」の天動説では、どんな形でも、貢献欲が社会を構成する基本であり、社会から強制を無くすことができるとの考えに至らなかった。強制の問題点、強制すればするほどやりたくなくなり、より強力な強制が必要となる負のループが生じることを疑うことが苦手だった。生産活動が全く自発的に取り組めると考えることが、社会貢献が最も楽しくてやりたいことだと考えることが凄く苦手だった。

また、アンチワーク哲学ではあらゆる社会に必要とされる生産活動が貢献欲によって成り立つことを強調する。これらの貢献欲がなければ今の社会すら崩れてしまうことを主張する。その上で、社会を維持するために必要な生産活動は他の条件が同じならば強制されて苦しむよりも、自らの内発的な貢献欲によって、楽しんで遊びで行われるほうがよいと結論付ける。

これも、「労働」の天動説にはない大きな特徴である。この一切の変更を認めない倫理のトートロジーに基づく体系であることが、アンチワーク哲学が真実だと確信するnoterが多い理由となっている。

アンチワーク哲学では、生産活動は貢献欲によって内発的に実行され、強制はむしろこれを封じると考える。強制を無くすことで、より真に社会が必要とする生産活動を人が積極的に始めると主張する。このとき、何が本当に社会に必要かが明らかになるとしているのだ。

ただし、実際には、現時点の強制により抑圧された貢献欲では各生産活動をどのように発展できるかを説明できず、ホモ・ネーモの著書では、良くなることは間違いないが、どこまで良くなるか、どう良くなるのか、それは分からないが引き続き用いられた。

実際には生産活動には、強く内発的な貢献だけではなく、無意識・無自覚な貢献があり、単純な貢献欲では活動の説明がつかないのだが、ベーシックインカムが今すぐ実現できる「路頭に迷う恐怖の緩和」と、今まさに抑え付けられている自覚的な貢献欲の解放による社会改良の可能性を強く信じ、「労働なき世界」以降の遠い未来への細かい言及は控えられた。

まとも書房の誕生直後に多くの書籍が出版されたが、その多くがすでに想定された批判が中心であり、本当に必要とする不意を突いた批判は少なかったように思われる。

そこでnoterの間では、アンチワーク哲学を斜めに構えつつ各々の持論を混ぜて、批判的に推進すべきだという提案が早くからあったが、この活動も発展途中にある。

『14歳からのアンチワーク哲学』 の出版と近くして、マルクス・ガブリエルは倫理資本主義と大して「企業の本質は善性である」と述べて「資本主義の秩序を歪める」人々を非難した。本は読まれ、「大企業に倫理部門を作りそこに哲学者を置く」という主張に一部大企業はついに説得され、その熱狂的支持者はアンチワーク哲学を上回っていた。

『14歳からのアンチワーク哲学』は、特にその名の通りの本であり、なぜベーシックインカムが必要か大枠としてどう実行するかを算出することはできても、具体的な実施時期と、その後に起こる多くの社会変化を予測する方法は記されていなかった。

アンチワーク哲学は倫理資本主義のような、それまでの「労働」中心説より観測データと適合するということも、自然学的に見てシンプルだという見解も読者や一部noterの間で収束しようとしていた。
(天動説の計算は確かに「労働時間や一人当たり購買力平価、ジニ係数などの物的な豊かさや格差、生活水準」をそれなりの予想精度を持って示すことができる。しかし、それを「本当に人々が生産したくてかつ、求める生産活動を表しているか」にも当てはめようとすると矛盾が生じる。)

アンチワーク哲学はマルクス・ガブリエルら博士卒哲学者達が明確にできなかった「実存が構造に強制される時、なぜ不愉快さが生じるのか?なぜ多くの社会問題がこのときに生じるのか?そのときどうすればいいのか?」を説明できるようになった。

哲学はついに、形而上学的独断論と相対主義を解体し、「意味」や「価値」の本質を解明する方法どころか、社会に直接活かす具体案、未来へのビジョンを得て、「ふざけんな!金返せ!」の粘土板より前から四千年以上続いたのプトレマイオス的反転から真の豊かさを取り返したのだ。

しかし、noterを中心とした彼らの活動を離れると、労働なき世界というものが基礎的な社会学や常識、おそらく上司と衝突しており、未だ「労働」主義者達がアンチワーク哲学を真実だと考えることは困難だった。

それでも人々はほとんどの「労働」がお金を稼ぐためだけの儀式に過ぎないことに気付き始めており、ますます労働短縮論ではなく労働撲滅論を求めるようになってきている。

「労働」の天動説もアンチワーク哲学も、強制がなければ人間はより自らの欲望に従った行為をすると考えていたが、両者とも生産活動と貢献欲がどう共進化するかはBIが配られないと分からないとの見解だった。

生産活動は非常に大規模に行われており、そのすべてが有益であることはなく、非常に多くの製品やサービスが置き去りにされていた。

生産活動が貢献欲によって成り立つならば、労働なき世界の生産活動は全く異なった様相を示すはずだが、それもまだ分からなかった。

「労働」がないということは、政治活動どころか生産活動さえ不可解なほど多くあり、これの多くが無くなることを示していた。

無駄がなく生産活動が動いていると仮定するならば、人間が真に需要する供給は多く見積もっても、今の5%程度あればよいとボブ・ブラックは見積もっていたが、だとして残りの95%が労働なき世界で抜け落ちるとは思えなかった。その遠大な空隙と、そこに何が埋まるかは未だ不可解なものであった。

Wikipediaの地動説から編集
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/地動説

しかし、まだコペルニクス的転回は起こったばかりだ。これをニュートン、アインシュタイン、シュレーディンガーまで突き進めなければならない。

おまけとして、そこで、さらにさらに分析を深めてみようと思う。

⑥おまけ?行為論的転回:欲望論のその先にある行為論「行為所与」

欲望を生じる行為こそが、これ以上遡ることのできない「確かめ可能」な底板である。それゆえ、一切の思考をこの底板から始発せよ。

欲望が行為を促すのだとしても、欲望が行為によって生じることも疑いようがない。欲望と行為はそれぞれが(アクターネットワーク理論のように)絡み合って知覚体験を作り出している。

欲望の行為論こそ、欲望論の発展系であり、今後の哲学の先の方針を生み出すものなのだ。

つまり、アンチワーク哲学とは、欲望の行為論に基づく行為論的転回の一つと捉えることができる(※当然それが上手くいかなくても別の立場に鞍替えは可能だ、実存哲学ではなく社会哲学のため)。

アンチワーク哲学は、主観的に「強制されている」と感じていることが、苦痛の原因であり、その裏には封じられた貢献欲などの欲望を想定している。

人間における実存的な「意味」や「価値」は、この欲望と行為の絡み合いと相関的に生まれる。その実態をつきとめ、フッサールとニーチェと竹田青嗣氏を越えることをアンチワーク哲学は課題とするとここでは考える。

いずれにせよ、私たちの直観は、何らかの知覚とその意味と行為とが必ずセットでやってくるものなのだ。

「個的直観」(知覚像)、「本質直観」(対象意味)、「情動所与」(知覚イメージ)、「行為所与」(行為が生み出すイメージ)が知覚体験である。

🍎、りんご(という意味)、その知覚像が生み出すイメージ、それと行為に関係したイメージ。この四つで知覚体験は成り立っている。この行為所与の概念が竹田青嗣氏の欲望論をさらに一歩も二歩も進めると考えている。

さらに踏み込むと、「行為所与」には、「自己行為所与」と、「他者行為所与」がある。

満員電車で空いた席は、
💺、空いた席、空間の空いたすっきしたイメージ、譲ろうとする自分、譲られて座ろうとするおばあちゃん

といったイメージ像が知覚体験を成立させている。
この「他者行為所与」こそがこれまで哲学者が「本体論」にしがみついた理由でもある。

🦕恐竜が実際にいたかを確かめるのは結局のところ自分(それも恐竜を見ようとした自分)であるため、自分の欲望や行為の裏に回ってその実在を確かめることはできない。それでも人がその裏を考えるのは、ティラノサウルスの化石が、まさに当時走り回っていたティラノの走る姿を呼び起こすからである。

このとき、像に映るのは恐々しい化石の知覚イメージ(情動所与)つまり、ナイトミュージアム的な走る化石のイメージだけではなく、ジェラシックパーク的な生きて走る恐竜なのだ。この時、ティラノサウルスの視点になって走る姿や、それから逃げ惑う自分などを想起できる。このジェラシックパーク的な生きて走る恐竜のイメージが本当にそれそのものなのかは、結局のところ(そういう学術的証拠をみて実在すると信憑するにせよ、実際に見るにせよ)、自分の欲望と行為と知覚イメージが必要である。このティラノサウルスもまた「他者行為所与」である。そして、人はティラノサウルスの化石を生きたティラノサウルスだと確信してしまうからこそ、人々はその裏に回ろうとする「本体論」にしがみついていたのだ。

このため、欲望と行為の裏に回ることはできない。つまり、行為-欲望相関的に、知覚体験は生じるのだ。このとき、人は「他者行為所与」を持っているため、🍎に対しても、「果実はもったいないから食べるし、種を植えてあげたくなる」といった同情をすることがある(極端に考えればフルータリアンになってしまうが)。こうした知覚体験は、一度そのイメージを感じ取ってから、改めて考え直して呼び起こされるイメージだけではない。「情動所与」のように知覚した瞬間に同時に沸き起こるイメージなのだ。このため行為-所与である。

他にも、たとえば、💩は他者に見られたくない、洗い流さないとという行為とセットで考えられる。このため、人は非常に薄い意識でトイレの水を流すという貢献を行うのだ。こうした貢献欲は、「行為所与」と考えることができる。

危ない状況にある人を見たら何も考えず咄嗟に危ない!と叫べるのは、人に「行為所与」があるからなのだ。これにより『Humankind』などで観測された人間の善性をより深く洞察することができる。

この行為所与を欲望論の一歩も二歩も先に進めるものと捉えるならば、人が貢献欲を待つ生き物であると明らかになる。人は元々相手の視点に立って考えるイメージを様々なもののイメージに抱いているのだ。

これは、人や生き物、それ以外に対しても、その相手側の視点に立つ思いやりを待つ。これを前提とすれば、アンチワーク哲学は実存と構造のポストモダンバトルを先に進めることができる。

この「行為所与」によって、人間の持つ意味や、価値を哲学はテーマとして扱い、実社会に反映できるほどに深堀りできる。

アンチワーク哲学の中心は普遍倫理(功利主義かつ義務論)のトートロジーでしかないとしても、そこに付随した社会の捉え方には、このような進歩があると考えられる。

そして、旧来の欲望論は、「強制」に関しては天動説であることから、アンチワーク哲学はこれを地動説にしたという大きな成果もある。

欲望論は長いし、難しいし、しかも値段も高いため、ネットで読んだ知識でこのように書いたが、それでも、私はアンチワーク哲学によって「行為所与」を今、確信するに至った。どこかで「欲望論」は図書館でも借りて読まなければと思う。

※下記記事を全面的に参考にした。


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