スガシカオの終末
今回扱うスガシカオ氏の曲は一つだけ、「午後のパレード」だけだ。
人に読ませる記事というよりは筆者が長く疑問に思っていたことをまとめる記事である。気負わず片手間に読んでほしい。
さて、スガシカオ氏の歌詞の特徴といえば、やはりその難解さにある。
(楽曲の歌詞は以下のリンクから)
この歌詞を表面的に取ると『パレードが来てはしゃいでいる夏の歌』なのだけれど、よく聞くと色々不穏当なことが歌われている。
どうやらこのパレードは本当に愉快な、また楽しい催しではないようだ。
MVに映るサングラス姿の人々も、どこか見かけだけはしゃいでいるように見える。
この歌を(あくまで私の視点から)読み解く鍵は以下の歌詞にある。
「君」の不在とは、つまり二者関係の不在でもある。見ると同時に見られ触れると同時に触れられる、メビウスの輪のように自分の外にあって自分自身とつながる誰か。「午後のパレード」の異様な寂しさは、この「君」がいない世界―「彼/彼女」といった三人称と「僕/私」といった一人称の冷たい没交渉だけがある世界の持つ寂しさではないか。
ここから余談。終末観/終末思想の話。
古代思想の終末論は二パターンある。大火か洪水である。
そこで終末とは個人の努力ではどうにもならない「天災」のイメージが強い。実際の山火事や川の氾濫から連想されたイメージだと予想されるから当然だろう。
時代は大きく下って20世紀。かつて世界中に終末観が広まった時代があった―冷戦/核戦争の脅威である。
作家大江健三郎氏の中期作品のいくつかは、この終末観を前提にすると読みやすい。
また時代が前後するが、三島由紀夫氏の後期作品には、いわば「個人的終末観」とでも呼びたいものが刻まれている。
日本は経済発展を遂げ豊かになった。しかし三島氏が愛した固有の価値観・世界観―美を中核とする―はボロボロになっていた。
氏の中年期の右傾化とも見える言動―「文化防衛論」など―もその傾いた柱を無理やりもう一度打ち立てるためだったと筆者は考えている。
今筆者の乏しい知識を晒してあれこれ終末観を語ったのはスガシカオ氏の終末観との違いを述べたかったのである。
これは村上春樹氏が非常に見事に言い当てているから記憶頼りに引用させてもらおう。
言ってしまえば、古代思想―聖書に代表される終末観や三島氏大江氏の終末観とは「決して来てはならない」終末である。それが来たとき世界は終わってしまうのだから。だから終末に対する憧れや抵抗する意志、教訓(終末が来る前に〇〇せよ)といった要素を引き出せた。
しかし、村上氏の言う通りスガシカオ氏の歌詞には―留保は必要だが―オウム以後の感覚がある。終末は本当に来てしまった。厳粛さも予感もなく突然に。しかも世界は終わらなかった。人々は「終末などなかったように」体裁を取り繕って生きている。そこにある消せない虚しさ―それがスガシカオ氏の、特にこの「午後のパレード」に現れているように筆者は思う。
なお私のスガシカオベスト3をあげるなら1位が「午後のパレード」2位が「19歳」3位が「あだゆめ」である。氏の歌のなかだと、問題が解決しない作品が特に好きだ。
サブスクなどで聞ける人がいたらぜひ聞いてほしい。
(追記)なお村上春樹氏「アフターダーク」にはスガシカオ氏の楽曲「バクダン・ジュース」が出てくる。
以下の記事も参考になれば。
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