「卵を産めない郭公」(村上春樹訳)などの話

著者はジョン・ニコルズ。村上柴田翻訳堂文庫、382ページ。

一言でいうと、青春物語です、で終わりなのだが、それではあんまりだろう。
そこで、サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と、ティム・オブライエンの2作品と比べつつ、この作品の特徴を示していこうと思う。ただ、これは文庫の解説で村上春樹本人が言っていたことの丸写し、筆者のオリジナルな話ではない。素人とプロの作家の解説なら、後者が優れている。もしよければ原本を借り村上氏の解説を読んでほしい。また、申しわけないがここからの話は私の記憶に頼る。間違いもあると思う。

さて。まず、この小説は60年代。男の子シェリーと、女の子プーキーの恋物語だ。時代としてはカウンター・カルチャー、古い社会制度が、若者によって変わっていく転換期に当たる。
この前には、未だ社会制度のマイノリティでいざるを得なかったサリンジャーが、この後には、ベトナム戦争に呑み込まれていくティム・オブライエンがいる。

そういうところから、この「卵を産めない郭公」は比較的のんきな、宙ぶらりんの時代の宙ぶらりんな小説、みたいなことを言われるし、確かに、初読の感想は「ノルウェイの森みたいだな」だった(「ノルウェイの森」刊行は1987年、バブル期)。
なんというか、「微笑ましい」のだ。

たとえば、作中ジェリーは、女の子を拷問にかけるシーンの想像で性的に興奮する。そしてそのことで、自分が性的異常者なのではないかと不安になる。
シェリーとプーキーの破局は、二人が(確か)カラスを追いかけたとき、地面のガラスでプーキーが足を切ったことだった。ささいなことから、二人の恋は破れていく。

別れ話のとき、プーキーが羽根枕を引き裂いて、ビリビリにしてしまう(確かホテルの備品のはずだが)。おまけに、プーキーはおなら(!)をする。それが下品にならず、またふしぎに哀しいのだ。
別れが決まったあとも、二人は行きがかりの男にお金を拾わせる。書くと何だが、愉快なエピソードだ。

これが「キャッチャー」になると、愉快も何もない。あらすじとしてはホールデンがニューヨークを巡り、いろんな「インチキ」たちと会ったあと、最後妹のフィービーがメリーゴーランドに乗っているのを見守るシーンで終わる、いわゆる、サリンジャーの「イノセント」を巡る物語として、これまで読まれてきたと思う。
しかし私の感覚として、作品にはむしろ死の気配が漂う。居場所なくニューヨークを巡るホールデンは、まるで幽霊のようだ。作品全体が、なにかの拍子で黄泉の国に入りこむような、危うさの中にあり続ける(また村上氏の発言だが、この妹フィービーもリアルな幽霊のようなのだ)。

ティム・オブライエンも悲惨だ。
彼の語るベトナム戦争は、第二次世界大戦と比べるとその性質がわかりやすい。
「ファシズムに対する民主主義の戦い」という大義が、二次大戦にはあった。しかしベトナム戦争は、大義なく、泥沼化した対ゲリラ戦が延々続く。
また、そこにあるのは「分断」だ。例えるなら、デパートの地下(ベトナム)では戦争が行われているのに、一階や二階(アメリカ本土)では普通に洋服やコーラが売られ、ディズニー映画がやっている。戦争と平和の境界はぼやけ、勝利の条件はあいまいさのなかにとどまり続ける。
平和と、二次大戦。両者との隔たりの間にベトナム戦争はある。

「僕が戦場で死んだら」。
話としては、ベトナム戦争の出来事が短編的に続く(ティム・オブライエンの小説でよく見る手法だ)。話者はオブライエン本人を思わせる青年。徴兵を逃れるため(作中で明示はされない)銃で足を撃つ者、二次大戦経験者と、新兵の分かち合えなさ。人間の愚かさが膨れ上がる。

また、村上春樹氏が訳したオブライエン作品としては「ニュークリア・エイジ」を紹介する。核の恐怖から逃れるため、穴を掘り続ける男。彼に謎めいた詩を送る妻。「ねじまき鳥クロニクル」を思わせる、長く、救いのない物語だ。

さて。「卵を産めない郭公」の話からだいぶ逸れたが、個人的にまとめると、小説にも二種類ある。
行き着くところまで行き着くような、危うい作品。ドストエフスキーや、ヘミングウェイのニック・アダムスのシリーズ(オブライエン作品と読み比べるのを薦める)。サリンジャーやオブライエンもこちら側だろう。人の死や、暴力性、悪、狂気が書かれる。深く記憶に残るが、苦しい読書だ。
一方、きちんと「まとめる」作品というのがある。つまり、人間には確かにそういう部分があるが、そこまで突っ込まない。日本だと、訳者春樹氏や、吉本ばなな氏の初期作品はこちら側に入るだろう。他にトルストイとか、フィッツジェラルドとかも。
この人たちに、前者ほどの力はない。正直、少し「浅く」感じることもある。

しかし一方で、前者には前者の問題がある。 と、いうのは、作品がまとまらないのだ。
それはそうだ。人間のめちゃくちゃな部分を引っ張り出しておいて、その作品がきれいにまとまるわけがない。ドストエフスキーの構成能力は彼の主題に比べてあまりにもひどい。家なら雨漏りだらけだ。
サリンジャーは「ハプワース」というごっちゃごちゃの小説を残し世を去り、オブライエンの「ニュークリア・エイジ」もラストが全くまとまらないまま終わる。ヘミングウェイのニック・アダムスシリーズも、「最後の原野」という「キャッチャー」を思わせるイノセントな兄と妹の作品を中絶して終わる(柴田元幸訳がとてもいい)。

まあ、ひどいのだ。それに比べて村上春樹「ノルウェイの森」よ!最後おばあちゃんとセックスする場面だけ謎が残る。が、とにかく「青春と喪失」というキャッチコピーで話がまとめられるのは事実だ。吉本ばなな氏の「キッチン」もそうだし、トルストイもフィッツジェラルドもまとめやすい。「悪霊」や「フラニーとズーイ」の要約不能性に比べて、これら作家のわかりやすさは映画的というか、2.3時間のうちにやることをきっちりやり、きっちり話を終えてくれる。

小説というのは、たくさん書けばいいというものではないだろう。アメリカの小説は長いほど良いという傾向があって、どいつもこいつもバカみたいに(なんて言っちゃいけないが)書く。上下巻は当たり前、合計では1000ページを超えたりする。
だが、絵だってたくさん書きこめばいいのではなく余白が、映画もシーンの省略が、その世界観を生みだす。 そうだろう?アメリカの大作至上主義はどうかと思うんだ、全く。

それに、人間の暗部を語るのがそんなに偉いのか?作家は全員人間の狂気と死と暴力を書く必要があるのか?そんなことはない。
そういう意味で、文庫382ページできっちり青春を味わえるこの愛すべき作品「卵を産めない郭公」は充分楽しい。ジェリーとプーキーの会話に耳を澄ませて。

最後に、江國香織氏の書評である。何か参考になれば幸いだ。

(追記)サリンジャー、ニコルズ、オブライエンと来て、その次の「青春」は誰が書いてるんだろう、と思ったけど、ブレット・イーストン・エリス?
「アメリカン・サイコ」(村上龍っぽかった)で有名だとおもうけど、「レス・ザン・ゼロ」(1985年刊行)という若者を書いた
(もう青春とは呼べない)デビュー作で、これがまあ、救いがない。

見つけた記事を載せておく。















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