町田康「本音街」―人間のしょーもなさを赦すユーモア―
如何に我信仰者となりしか―人ちゅーアホ―
今の世の中アホンダラが実に生きにくい。
アホを見つけるなり暇な連中がよってたかって
「アホ!肥溜めに浸かってろ!」
「アホ!南極で凍え死ね!」
「アホ!豆腐の角に頭ぶつけてくたばれ!」
ボコボコ言いまくる。
なぜそんなことが分かるか。俺が本家(元祖・真祖・天性)アホンダラだからである。
何がアホンダラか。歯である。
歯そのものがアホンダラではない。
実は俺、虫歯になるのがとても怖いのである。
お前の歯が虫歯になろうがヤンキーにへし折られようが誰も気にしない。なのに怖い。
あまりにもバカバカしすぎる。この男、今年で齢は二十と三を数える。
「ああ、アルフォートを三枚は食いすぎだ!虫歯になる、よよよ、この世の終わりだ」
不謹慎かもしれないがパレスチナの子どもの命を成人男性一名の生贄で救える黒魔術ご存知の方は至急連絡願います。
少なく見積もって残り四十年このまま人生続くかと思うと納豆を混ぜた箸が床に落ちるくらいに悲しい。
しかし仕方ない。俺とて好きでこんな生き方してるのではない。
つーかまだ本気出してないだけだし。
……まあ、与太話はこのくらいにして、とかく人間しょーもない。どーしょーもない。救いがたいし、もー滅ぼすっきゃない。
ともいかない。
ので、阿弥陀仏っちゅー仏さまが
「とりあえず南無阿弥陀仏って唱えたら浄土に迎え入れよう」
と約束をしてくれた。素晴らしい。
あまり素晴らしいので俺はその約束を信じることにした。
しかも信じた者は菩薩というなんかすごいのになって、なんか滅茶苦茶みんなを救えるらしい。
(これが「浄土門」よ)
という経緯で、俺も晴れて「宗教者」になった。
いつかインタビューを受けたりして。
「現代日本における信仰について」
「いやー、俺的に?なんつーかみんな適当に生きすぎなんすよね。いやマジで。なんか、まあ?一応?へへっ、宗教、やらさせてもらってますけど?へへへへへ、まあなんつーかそのね、みんなね、人生舐めすぎ。マジね、もっと俺みたいにマジで信じたほうがいいっす、ってだけ言っときますわ」
で、その阿弥陀仏の信仰で、何で南無阿弥陀仏だけで救われるのかよーわからんボケどものためにクソ親切にも教えてやると、まず、人間はみな等しく愚かである。
阿満利麿さんという浄土門の信仰者は関西出身なので「アホ」と呼んでいたが、アホで嫌ならヘチマでもマヌケでもタコナスでも構わない。
要は人間みな救いがたいボケっちゅー話である。
でこのクソバカ連中、座禅は無理だわ、「般若心経」だのお経読ませても理解せんわ、予備校で言うなら鉛筆の持ち方から教えるしかないどん詰まりのカス。
だから、誰でもできる称名(「南無阿弥陀仏」と唱えること)で救おう、という話になった。
あれよ、馬鹿がテスト用紙に名前だけでも書いたら花丸あげるみたいなもんよ。
で、そのボケナスを浄土門だと「凡夫」と呼ぶのよ。
でざっくりまとめるとな、法然が凡夫のしょーもなさを赦して、親鸞が凡夫のしょーもなさを突き詰めた。
とにかく、浄土門はしょーもない人間をしょーもないまま救う器のでかくて懐の広い最高の宗教なんだわ。
信じらんない?
歯ブラシの生まれ変わりみたいな男が救われてお前が救われないわけあるか。
ということで今回扱うのは町田康さんの「本音街」。
町田さんの作品の肝は、大雑把に言えば「人間のしょーもなさ」にある。
我々、しょーもないことに振り回されて生きてる。スマホの機種変で一日潰れる、ストレス溜まって激辛担々麺食ったら腹壊す、接客担当が大ハズレで死ぬほどイヤミ言われてハンカチ噛みちぎる、マジしょーもない。
「人生ってのは一度きりです、だから目一杯生きましょう」
そーゆーあんたに俺は聞きたい。足の小指を机の角にぶつけて外出計画パーなってスマホで三回見たゲーム実況見てる俺の人生どうしてくれる。
人間、しょーもない人生をしょーもなく生きて、「本当はしょーもなくない人生あんのかな」と思ったりしながら諦めてしょーもなく生きてる。
町田さんの世界では、いつも登場人物は、「しょーもな的世界」と「非しょーもな的世界」の間で引き裂かれて生きてる。哀れなほどに。
昔こんな話を聞いた。
ある子どもがテレビゲームにうつつを抜かし、勉強もせず、家族と話もせず部屋に籠もりきりだったと。
で当然親はビビって、子どもが留守の間にゲーム押し入れに隠して、「家族の会話」をやろうとしたらしいのよ。
だいぶ話は端折られてると思うけど、にしてもこの親アホだ。まだ俺の境地には達せていないな。だがなかなか見どころあるアホだ。
なぜこうなるんだ。その親はその親なりに真剣に、「子どもと向き合おう」としたわけだ。でもその結果は罪のないゲームを押し入れに幽閉し、「家族の会話」(笑)をすることだけだったと。
なんつーかね、俺たちゃいつも「俺の人生」っちゅービデオを見せられてる。四六時中、朝昼晩、ゆりかごから墓場まで飽きることなく。
で「俺の人生」は、要は「しょーもな的人生」だわ。
だから、そこに非しょーもな的もの(きれいなものや美しいもの)は出てこない。
なのに、その親はしょーもな人生生きてる分際で、非しょーもな的なもの(家族愛やら家族の絆やら)欲しがったと。ゾンビ映画に風の爽やかな白いコテージ探すような真似したと。
バカが。上手くいくわきゃない。
でも俺たちは自分の意志では、もうこの「しょーもな的人生」っちゅービデオ見るのが止められない。
それが「罪悪生死の凡夫」よ。
だから、阿弥陀仏は智慧の光を放っとる。
バカガキのスマホ隠すバカ親、クソDV男、俺、マンコのことしか頭にない人間チンポ、死刑確定の人殺し。
そんなアホのエレクトリカルパレードみたいなバカどもが光のない夜を迷わないように。
本題
……この話し方は疲れたので元に戻します。
町田さんは凄いです、生粋の関西人は違います。私の話し方ではどうも田舎書生の芋っぽさが出てしまう。
それで皆さん、紅白見ましたか。私はグースピ寝てたら新年でした。
こっちのけんとさんの「はいよろこんで」は聞きました?
私、B'zと彼の曲だけは聞きたかったので今も無念です。
明るいようで暗い曲ですね。聞くと太宰治の小説を思いだします。明るく道化を演じるしかない人間の絶望感が似ていると思うのです。
人は建前の生きものです。嫌でも面倒でも、ときに「はい喜んで」と言って笑わねばならない。それは社会の仕組みそのものでもあるでしょう。
……では、そうした「建前」を取っ払ったらどうでしょうか。愛想笑いや、ご機嫌取りや、無意味な祝辞を捨て去り、醜く、けれど嘘のない「本音」だけで生きられたなら。
そんな、ある意味における「ユートピア」(ちなみにユートピアの語源は「存在しない/どこにもない場所」です)を描いた短編が、町田さんの「本音街」(「浄土」収録作)です。
作品紹介
「本音街」はどんな場所か。
例えば、さるいい女はこう口にします。
ケーキ屋の兄ちゃんの作ったケーキは
とこの始末。
けれど少し素敵ですね。この世の理屈がつかの間捨て去られ、本音街では誰しもありのままに生きている。
……しかし、この後の編集者と作家の会話を聞いてください。
いくら本音をポンポン言える本音街でも、現実の権力をすべて免れ得るわけではない。ここでは「本音」が「金」と「生活」の前に屈する姿が描き出されています。
そして、「本音」の無力な(口には出せても様々な抑圧を受ける)「本音街」は、もはや現実の退屈な写し鏡でしかない。
だから「私」は最後、
カギカッコに入れた「本音」しか言えない本音街で真の本音を言おうとしても、それは当然叶わないのです。
本作の「本音街」は、私には偽の―不完全な―「浄土」なのだと感じられます。人間が自らの力で作ろうとした浄土―極楽の成れの果て。
よく、新興宗教団体は地上にユートピアを作ろうとしますね。彼らの掲げる言葉は美しく、ときに人々を惹きつけます。
しかし多少なりとも形になったものは極めて少ない。
その多くは閉鎖環境下における暴力や、古参と新参のいがみ合いや……現世的なあれこれに振り回され、気がつけば求めた楽土とは懸け離れたものに変質してしまいます。
しかし、それは彼らの教義や手段が本質的に不完全なせいではないと思うのです。
むしろ、不完全なのは人間そのものではありませんか。
私たちはいつも夢見ています―この世ならぬどこかで、皿洗いや歯磨きや入浴やらに追い回される生き方を止め、心安らかに生きることを。
もちろん、かわいい女の子とイチャイチャしたいとか、優しい美青年に溺愛されたいとかでも構いませんよ。
それもまた、今、ここにある生き方から抜け出したいという方向において、何の変わりもない。
けれど、そうした個々人なりの「浄土」に、具体的にどうたどり着くかは暗中模索です。
その間に、私たちは偽の楽園や天国に取り巻かれ、幻滅と冷笑を繰り返し、ついには真の楽園や天国さえ信じられなくなってしまった。
(本編からここまでは読み取れないのですが)彼岸から遠く隔てられ、死にゆく人間の行き場のない現代の寓話として、この作品を読むたび私は深い痛みを覚えます。
けれど、そうした人間の「しょーもなさ」を、町田さんの小説には深く悲しみつつも、どこかで赦す優しさがあります。
そしてそれは、浄土門の法然の大らかさと少し似ている気がします。
「一百四十五箇条問答」という、当時生きていた人々が法然に、その名の通り百四十五個の質問を投げかけた記録があります。
私、これを読むのがとても好きなんです。いくつか、特に好きな受け答えを現代語訳で並べますね。
読んでいると、人々の質問は実に煩雑なものです。正直、「お前これ聞いてどうすんだよ」というものもないわけではない。
けれど、そうした現実の不要なほどの瑣末さに忙殺され、神や仏から遠い場所で生きる彼らは、思えば私たちの似姿のようです。
そうした人間の―この私の―「しょーもなさ」を赦すおおらかなユーモアが、町田さんの作品と、法然の言葉にはある、と思います。
最後に、もしこれから町田さんの小説を読む方には、長編「口訳古事記」、短編「ゴランノスポン」を、それぞれお勧めします。
追記:なお、もし本音街のように、不完全にしろ地上の論理から解放された土地柄に興味がある方には、網野善彦さんの本をお勧めします。
中世における「アジール」―地上的権力から解き放たれた場所―について研究なさった方です。