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堀辰雄「四葉の苜蓿」
※タイトルにある「苜蓿」はクローバーの和名で、そのまま「馬肥やし」が由来という。
本作は書き出しが素晴らしい。
夏に先立つて、村の會堂の廣場には辛夷の木に眞白い花が咲く。まだ會堂に閉されてゐて、その花の咲いてゐる間、よくその木のまはりで村の子供たちが日曜日など愉しさうに遊んでゐる。その花が散つて、すつかり青葉になつた頃、その村に夏を過しに來た人々がその會堂に出たりはひつたりしはじめる。
ここで特に読んでほしいのは、時間の描写である。
a.「夏に先立って」―この言葉が「辛夷」の花のイメージと繋がり、読者の心理に春から夏にまたがる一まとまりの緩やかな時の流れを与える。
b.そこから、「日曜日など愉しさうに遊んでゐる」春の子どもたちの姿が描写され、先ほどよりも小さな―日常的な―時間の輪が提示される。
c.そして辛夷が「すつかり青葉になつた頃」―再び時間軸が夏に戻り、そこで「夏を過しに来た人々」の姿が描写される。
ちょっとややこしくなったが、要は
a.春から夏へと流れる(詩的な)季節の時間
b.日曜ごとに遊ぶ子どもたちの日常的な春の時間
c.人々が避暑に訪れる夏の時間
の三つの時間軸が、この書き出しに併存している。
さらにこの次の文で【(夏の頃から)「村で一番美しいと云はれるさるすべりの木がこれも眞白い花を咲かせる」】と、さるすべりの白い花がc.の夏の時間を飾り、これはb.の春の時間を象徴する辛夷の白色と響きあう。
退屈な小説は干からびた米粒のような、動きのない過去や現在だけで書かれてしまうものだ。
それに比べ、この繊細な時に対する配慮と、辛夷とさるすべりという白い花びらのイメージの交流は、読者の心を清潔な抒情で湿らしてくれる。
ここから先は堀辰雄式の抒情文で
1.「家具なども古くて底光りのしてゐたやうなその村の古いホテル」の倒産
2.「まるで活溌な散歩をしてゐるやう」に踊る「眞白な衣をした少女」
3.夭折した「四葉の苜蓿を搜すことの上手な少女」
4.四葉のクローバーを探す二人組の老婦人
5.ヴァイオリンの音の狂いに戸惑う「あの髮の黒い、目の大きな、印象の深い少女」
そうした、堀辰雄の美的センサー(蜘蛛の巣と呼ぶべきか)に運悪くも捕まったあれこれが、子どもが丹念に作った箱庭を大人に説明するような口調で語られるが、筋らしい筋もないので、割愛する。
一つ付け加えるなら、確かにそこには男性中心的な歪みや金持ちの道楽の呑気さ、安い抒情があるかもしれない。
それでも確かに美しいのも、また事実だと思う。
(追記)本作は堀辰雄全集で調べると、大体は短編ではなく、「雑記」の方に入れられている。
確かに目に見える構築性は薄いが、しかしそれだけで読み過ごすにはもったいない小品である。
何しろバッハのフーガのように、一見エッセイ風の作品ながらも個々のイメージは緩やかに結びついている―春の辛夷の花と夏のさるすべりの花、四つ葉のクローバーを探していた現在の老婦人と過去の少女、踊る少女と演奏する少女―。
こうした美しい小説はもう出て来ないのか。
が、ホテルの裏の塀にくつついて立つてゐる、村で一番美しいさるすべりの木は(注:ホテルの倒産にもかかわらず)その儘引つこ拔かれもしないで今年も夏のはじめには眞白い花を咲かせてゐた。私が今年はじめてその前を通つて見ると、その木の下はいまはもう公然と便利屋の荷車の溜まりになつてゐて、その車の上に、匂のいい白い花がぽたりぽたりと落ちてゐた。