「猫と庄造と二人のおんなたちは風の歌を聴け」
できれば本文と見比べながら読んでほしい。
「福子さん、このようなぶしつけな手紙を送ることを、どうか許してください。この手紙は雪さんの名義で出しましたが、もちろん彼女が送ったものではありません。察しの良いあなたならこれが私からの手紙だと気が付かれたことと思います。そしてあなたの友達の名前を無断で使った私を、おそらくは信用のならない人間と判断したはずですね。でも福子さん、私があなたにこの手紙を読んでもらうために、手元に残されていた方法はたったこれだけだったのです。それから私はこの手紙で福子さんに、私の個人的な泣き言を聞かせるつもりはありません。そんな手紙を読むほど、人間の一生は長くはないですから。ただ、人生には時折誰にも―本人でさえも―予測のつかないことが起きるものだ、そんなことを最近は特にひしひしと感じている、それだけ言っておきます。
単刀直入に言いますね。私はあなたのお宅の「リリーちゃん」が欲しいのです。あくまで私が塚本さんから聞いた限りですが、あなたが―福子さんが、「リリーちゃん」を手放すのがいやなのだそうですね。しかし福子さん、私はあなたに私自身を構成する実に多くの存在を明け渡しました―蓋を閉め忘れたミキサーの中身のように。いえ、泣き言を聞かせるつもりは本当にないのです。ただ、私に―もしよければということです―「リリーちゃん」をお譲り願えませんか?私の人生は、残念なことにそれほど楽しいものではありませんでした。その私に、たった一匹の猫を譲り渡すことがそれほど難しいことでしょうか?そこには疑問が残ります。
福子さん、あの人の「リリーちゃん」のかわいがり方には、何かしらいびつなものがあります。人間存在の暗部にそのままつながる、限りなく致死的なものが。あなたにとっての「リリーちゃん」は単なる一匹の猫に過ぎないかもしれない。でもね、福子さん、この世に「単なる猫」なんてものはいないんです。全ての猫は個別的で実存的な猫であり、大きく分けて名前のあるものとないものがいます。私たちは便宜的に、前者を飼い猫、後者を野良猫と呼びます。しかし福子さん、この分け方はどこまで行っても恣意的なものです。そうでしょう?この世に名前のない飼い猫がいてはだめなのでしょうか、あるいは名前のある野良猫が。
まあ、そんな話はどうでもよいでしょう。とにかく、あの「リリーちゃん」という猫を、早くあの人のそばから話した方がよいのは事実です。そこには大いなる暗闇があります。福子さんも私も、とても太刀打ちできないような暗闇が。……
福子は庄造とリリーの姿をじっと見ていた。彼女は何を考えているのか?あるいはこう言い換えてもいい。「女性とはいったい何を考えて生きているのか?」それは私たちの抱える永遠の謎だ―納豆を食べた箸で野菜炒めを食べる行為の倫理性の可否と同様に。
庄造は日本酒を飲んでいる。普段からそれなりに飲酒の習慣のある人間のよくする、手慣れた飲みかただ―まるでドイツ軍のポーランド侵攻のように。それから彼は言う。
「リリー」その声色から察するに、彼はその猫のことをかなり大切にしている。
……このあたりで飽きて止めて数ヶ月放置していたが消すに惜しいし我ながらなかなかいい線行ったパロディと思うので中途半端だが載せておく。
なんの考えもなくやったのではない。何しろ最近の村上春樹作品にはユーモアが(全然!)足りないのだ。悪との闘いは結構だし壁の中でも外でも書いてくれればいいのだが、私は彼はもう十分仕事を果たしたと思う。そうではないか?「ねじまき鳥クロニクル」「アンダーグラウンド」「神の子どもたちはみな踊る」「海辺のカフカ」「1Q84」。これらに比べると知名度には劣るが「スプートニクの恋人」と「東京奇譚集」だって見事な作品だ。
だから、彼はそろそろ力を抜いた作品を書いたってバチは当たらない―と思う。「一人称単数」にはいくらかそうした作品があったが、やはり内省的な暗さがつきまとった。
まあ、もう難しいのかもしれないけれど……私は氏の初期の書いてる本人も絶対楽しみながら書いた作品が結構好きなのだ。
それこそ谷崎潤一郎の「猫と庄造と二人のおんな」のような、筆の遊びに流したような作品を書いてくれたら。
という思いつきを試したがやはり私では二次創作者としてさえ力不足である。筒井康隆の頭に電極を挿して書かせるプランもあったがかわいそうだし、「カーテンコール」もいい短編だったからやめてあげよう。
それだけの記事だった。まさか読んだバカもいないと思うが、もしいるならありがとう。もっと腕を磨いて、いつか完全版を作って見せよう。楽しみにしてくれ。
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