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【失礼な作家紹介】No.5角田光代「幸福な遊戯」「ピンク・バス」など5篇

本シリーズは作家の初期作品に噛みついてこき下ろすろくでもないシリーズである。これまで羽田圭介/柴崎友香/平山瑞穂各氏の作品を扱った。今回は角田光代氏である。

個人的には「対岸の彼女」がとても好きだ。また中学生のとき「八日目の蝉」を読んで(詳しくはネタバレのため割愛するが)楽しんだ記憶がある。

【まとめ】
今回扱う初期作品5篇はその多くがモラトリアム期の大学生を扱っている。どれも完成度の高い作品であり、欠点は作品より題材にされた【90年代前半の学生たち】に責任がある―つまり角田氏の創造力は全く問題ない。

「幸福な遊戯」:1990年11月掲載作品。作者23歳。
しっかり者の立人といい加減なハルオ、「私」は3人でシェアハウスを借り共同生活をしている。決まりは一つ。同居人同士でセックスをしないこと。「私」はこのシェアハウスに特別な思い入れを抱いている。それは残り二人も同じ。

しかしその後ハルオは真剣に写真を学ぶため部屋から出ていく。続けて立人も、恋人を作り出ていく(なおこの前「私」はハルオと、続いて立人と性的な関係を持っている)。

小説の最後、一見関係のない情景が挿入される。
何人もの子どもたちが原っぱで遊んでいる。子どもたちは夕暮れになったから帰ろうとする、が一人の女の子がいつまでも帰らない。

最後の情景の一人の女の子は「私」だろう。
「幸福な遊戯」―女一人、男二人の親密な関係はしかしいつまでも続くものではない。
主人公の「私」はそのことに最後まで気が付かず取り残される……哀感のある短編だった。

「無愁天使」:1991年9月掲載作品。作者24歳。
母親が病に苦しみ死んだ後看病生活に疲れ切った「私」と妹、父は心配性の母の残した生命保険を使い無意味に品物を買い続けることで生きる目的を生み出し続けてきた。
しかしそうした無茶な生活も終わろうとしていた。
「私」はデリヘルで働いている間に野田草介という老人に呼ばれる。だが彼はただ話し相手を探しているだけのようだった。
「私」は野田草介にこれまでの無目的な日々を話す。

小説の最後「私」と野田草介は睡眠薬を飲んだ後カミソリで頸動脈を切ろうと約束するが「私」は死ななかった。
野田草介のことを忘れた「私」は街に飛び出す。

走る「私」の先にあるのは漠然とした未来だろう。老人とカミソリ―「死」から「私」は遠ざかっていく。それは同時に母の看病とその後の大量消費に支えられた歪な家族生活から「私」が解放される予感でもある。

「銭湯」:書き下ろし。
過干渉な母親と田舎暮らしを憎み、都会で劇団に所属していた八重子は今では妙子というお局のいる会社で退屈な仕事に追われている。
主題は【決定された未来の外に人がどうやって出るか】でいいはず。そこで「銭湯」というモチーフが効果的に扱われている。
銭湯にごった返す女たちの裸を見ながら八重子にはそれが「母と重なり妙子と重なり、」「そして八重子に重なった」ように感じる―女性の肉体は個人とその未来を抑圧する「社会」の具体例のようにそこにある。
最後に少女の裸体のみずみずしさが希望として残るが……暗い短編だった。
(同一の主題を扱った作品には高野文子氏の「はい―背すじを伸してワタシノバンデス」など)

「昨夜はたくさん夢を見た」:1992年8月の作品。作者25歳。
大学生の「私」とイタガキは付き合っている。がイタガキは突然インドに行ってしまう。
イタガキは何かにつけ影響を受けやすい人間であり(昔は「セックスドラッグロックンロール」が売り文句だった)、インドに行ったのもその一環に過ぎないかもしれない。
しかし最後に、「私」はイタガキが満天の星空を見上げる姿を想像する。

何かになりたい大学生たちの爪先で立つような生き方は95年を境に単なる「呑気な時代」と括られることになるだろう。が、この時代なりの切迫感は確かにある。

「ピンク・バス」:1993年6月の作品。作者26歳。
タクジという無神経な彼氏との間に子どものできたサエコは子どものために穏やかな生活をしようと決める。
しかしタクジの姉を名乗る実夏子の奇妙な言動(サエコのお腹の赤ちゃんが気持ち悪いというセリフや髪の毛の詰まったぬいぐるみなど)にサエコの生活はかき乱される。

サエコの窒息するような現在に対比されるのは、かつて彼女の過ごしたレゲ郎―平中鉄男という男との十ヶ月に渡る路上生活だ。
しかしあるとき「生理が二週間も来ない」ことでサエコは彼との路上生活を止め真っ当な生活に戻り、やがてタクジと結婚した。

タイトル「ピンク・バス」は実夏子が待っているバス。小説の最後の方、そのバスに「老いた浮浪者」「若い男の子」などが次々乗り込んでいく。 
だがサエコは「ゆっくり乗車口を下り」る。

サエコは特別などこかに向かう「ピンク・バス」ではなく、タクジとの日常生活を続けることを選んだ、という解釈でいいのか。

なお、サエコがやや妄想気質があることが作中で明かされている。このエピソードのいくつかは彼女の頭の生んだものかもしれない。

(余談)個人的な話だが、タクジは本当に苛立つ男である。サエコはこんな男を捨ててバスでも電車でもどこか逃げればいい、と思ったが彼女のお腹には子どもがいるのだ。自分が同じ立場に立たされたらと思うとぞっとする。ここまでして、サエコもタクジも生きる理由は何なのだろうか。

 【おわりに】
どの作品も筆者の下らない文句を寄せつけない優れた短編だった。もし無理やり文句を言うなら題材になった大学生たちの甘えた生き方に対してだが、これは作者に言うべきことではないだろう。

今では多くの人が読まない作品が一様に劣っているわけではない。時代の空気や、残らない風俗をすくい取った佳作はしばしばある。探すのは楽しいものだ。

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