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評価される

私たちは日々評価されながら生きている。

つまり日々評価というものに翻弄されながら生きている。

評価は本当に必要なのだろうか。

良い評価が自分にくだった時は喜び、悪い評価が自分にくだった時は落ち込む。そんな一喜一憂に人生が大きく振り回されている気がする。

自分は学生の身分であり、教授と時たまミーティングをするわけだが、そこで数々のアドバイスや自分の意見に対する論破を受け、自分の能力に対する自信をなくす(先ほどこれがあり、この気持ちを言語化とともに分析したく、この記事を書くに至った。最近感情を言語化して分析することで、それが和らぐような気がしてよく行っている)。

私は、アドバイスや論破という事実を受け、自分は教授から無能であると評価を受けているような気がした。だから自信をなくし、ミーティング直後はやや放心状態だった。

この私の例は、直接的な評価であるわけではないが、ある事実からそれが評価であると感じた例である。年収が下がる・上がるとかの方が明確な評価なのかもしれないが、私たちは日常的にあたかも周りから評価されているような気持ちに苛まれながら生きている気もする。

そこで評価というものに関して、以下の3点で考えてみたいと思う。

  • 評価とは?

  • 評価の弊害とは?

  • どうすれば評価に悩まないようになるか?

評価とは?

評価とは、ある指標に従った良し悪しである。今回は特に人に対する評価について着目したい。

その指標とはどのように決まるのでしょうか?

私は以下の3つが考えられると思う。

  • 場所

  • 他人

  • 自分

場所における評価

場所とは、例えば学校・会社などが考えらえる。その場所の目的に従って評価というものがうまく利用されるのだ。学校では生徒の学力向上という目的のために成績という評価システムがあり、会社では売り上げ向上という目的のために営業実績・難易度の高い仕事をしたかなどという会社独自の評価システムがある。

評価システムを作ることで、頑張った人にはその分だけ対価が与えられるようになっている。それによりさらに頑張るという正のフィードバックを回すことで目的達成に近づける。

学校は個人レベルの目的だが、会社は会社という場所の目的であるという違いがある。この違いは大きい。

つまり学校では、自分の中に評価システムを構築することが求められるのだ。評価を受けることでそれを喜びと感じ、さらに勉強するという正のフィードバックを回すことが求められる。

会社の場合は、会社の中にある評価システムに自分を組み込むようなイメージである。会社の目的が個人の目的と合致しないという社会人は多いと思う。多くのサラリーマンが会社の中にある評価システムに則り、報酬という対価をもらっている。

報酬というものがない学校では自分が評価されることを報酬であると思い込もうという力が働くのだ。それにより、いつしか評価というものに強く固執するようになる。

特に学業優秀な学生にこの傾向は多いが、評価されることを第一として考え、最早それそのものが生き甲斐となっている。

結局評価というのは、その評価システムが存在する世界の中での相対的な位置付けを図るものであり、つまり周りと比べることを促進するのだ

場所というのは、学校や会社だけではなく、コミュニティも場所というものの一つである。基本的にコミュニティも何かの目的で作られる。

ただコミュニティには評価システムがないような場合も多い。後で述べるが、そのようなコミュニティは魅力的であると考える。

自分における評価

私たちは、自分のことを常に評価する。

評価システムは自分の中にも存在する。

評価には目的があると述べたが、自分を評価することの目的とはなんだろうか?

私は心の安寧を保つことと成長のためだと考える。

人は、自分に高い評価をつけることで自分のアイデンティティを保ちたい。

人は、自分に低い評価をつけることでその悔しさをバネに成長を望む。

他人における評価

他人も当然自分のことを評価する。

その他人の評価システムの目的は当然、その他人にとっての心の安寧と成長のためである。

だからこそそれをあたかも絶対的な評価であるように受け止める必要はないのだ。

評価の弊害とは?

評価には目的があると述べたが、必ずしも必要ではなく、評価などない方が良いと私自身考える。

なぜなら評価というのは、何かの指標に基づいて行われるものであり、つまり人を評価するときにある一側面においてのみしか着目していないのだ。

ただ実際、人は多くの側面から構成される。

それなのに一側面だけをみて、良い悪いを決めて、あたかもその人の価値を決めてしまうのはナンセンスである。

そうだと頭ではわかっていながら、評価に一喜一憂してしまうのもまた人間である。

ただ自分以外から生じる評価の目的は自分の外側にあるのだ。そんなものに振り回されていたら本当の自分を蔑ろにしてしまう。

自分で自分を評価できれば、全く問題ない。他人からの評価を深く気にする必要などない(時に他人からの忠告に耳を傾けた方が良いという場合ももちろんある)。

どうすれば評価に悩まないようになるか?

ただ人間は評価されることに日々悩まされているのが現実だ。

どうすれば評価に悩まないようになるのか。

その答えは、評価システムがないコミュニティに身を置くことだ

評価システムがないコミュニティでは他人と比べることをする必要はない。

そんなコミュニティでは個人のアイデンティティが色濃く出るようになる。当然コミュニティの構成員を測る指標がないので、自分のアイデンティティや他人のアイデンティティがよくわかり、各々が自分らしくいられる。

それではそのようなコミュニティはどのように形成されるだろうか。

一つはアルムナイである。

アルムナイは元々同じ世界の住民だったが、その世界から退去した人たちの集まりである。つまり、元々は同じ評価システムの中に組み込まれていた人たちのことだ。

ただそこから退去すると、もうその時の指標や評価について考える必要はなく、ありのままの自分としていられる。

だから高校・大学の時の仲間、大学時代のサークルの仲間などは貴重な存在となると思う(自分も高校とサークルコミュニティは今も大事にしているし、大学のコミュニティも卒業後に大事にしたいと思う)。

おわりに

自分は学力という一元化された物差しのみで評価される風潮が強い大学からは卒業したい。この息苦しさから逃れたい。

ただ卒業後もまたエンジニアとしての技術力中心に評価されるのかもしれない。

だからこそ、ありのまま自分を受け入れてくれて心の拠り所になるようなコミュニティを大事にしたいし、そういうコミュニティを提供できたら本望である。

そもそも、人にはそれぞれアイデンティティがあり、それは何かによって評価できるものではないような気がする。

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