![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/99661639/rectangle_large_type_2_9bd65a436b31fc023b7bb7c344e4a754.png?width=1200)
マルクスによる自己疎外からの解放論
『魂の螺旋ダンス』改訂増補版(読みやすいバージョン)より、マルクスの章。
・マルクスによる自己疎外からの解放論
マルクス主義は二十世紀の世界を席巻した。
もちろん、それには高い理想が掲げられており、また王政や他国の侵略からの解放など積極的された思想は、瞬間瞬間更新される覚醒による超越性と、深い根源的解放の世界を謳いあげるものだった。
後に、その当人の思想が固着を起こしたり、後継者が教条的なものに変質してしまうという点も、他の思想と共通している。
超越性宗教の絶対性宗教化である。
ではマルクスが本来、表現しようとしたコミュニズム(共産主義)とはいったいどのようなものだったのか。
そのことをピンポイントではっきりさせておこうとするとき、主著であるとされる『資本論』よりも、若き日に書かれた『経済学・哲学草稿』がその思想の一番根底のところを鮮明に表現しているということができる。
今しばらくこの書によって、マルクスの思想の根源に思いを馳せてみよう。
驚いたことにマルクスはその最初から、共産主義が物質的な配分の均分を目指すだけでは不十分で無意味であることや、専横的な国家による政治的なものである限り、その目指すべき姿ではないことを看破していた。
共産主義を大きく三段階に分類し、その各段階の特徴を叙述し、その最終段階が真の「自己疎外からの解放」であることを早くから表現していたのである。
共産主義(1)
マルクスの思想の根底として重要なのは私有財産という(他の生き物にない)人間特有の観念の批判にある。
人間は、私有財産という観念に囚われ、そのことを通じて自然や自己自身から(もっと言うなら今ここに満ちあふれる限りなき働きから)自己疎外されていると考えていたのである。
共産主義とは、その私有財産という観念を止揚し、今ここにおいて全面的に自己解放されることでなければならなかった。
しかし、共産主義の最初の段階では人間の意識の自己変革がそこまで及ぶことはない。
そうではなく、ただ「労働者の仕事は止揚されないで万人の上に拡大される。」つまり、労働者の在り方が変わり、自己疎外から解放されるのではなく、全員を資本主義下の労働者と同じ存在にすることによって、「平等」を実現するに留まってしまうのである。
それは「私有財産として万人に占有されないあらゆるものを否定しようとする」。 ある意味、私有財産という観念に強く囚われたままである。
そのため私有財産を共有財産にしようとするが、対象の物質的「占有」という性質は変わっていない。
結果、そのような物質的な次元に留まらない人間の諸能力については「暴力的なやり方で才能等を無視しようとする」。
これが、文化大革命などにおいて、典型的に生じたことである。
またマルクスは、そのような共有財産に対する態度が極めて物質的な「占有」しか意味しないことは、男性の女性に対する態度に典型的に見られるとする。
「結婚に対して女性共有」「人間の人格性をいたるところで否定する」「妬みや均分化を完成したものに過ぎない」。
そのことが、結婚を女性共有に変えるという考え方の中に顕著に露呈しているというのである。
いずれにしろ対象のすべてを物質的にだけ見て均分化するだけなのが、この共産主義(1)である。
ルドルフ・シュタイナーの社会有機三層論は、法的平等、文化的自由、経済的友愛を説くことでマルクスに対抗したと言われることがある。
その場合、マルクスが三領域のすべてに平等を当てはめようとしたとする誤解が前提にある。
しかし、すべてを物としてしか見ずに、それを均分化することは、なんら私有財産の超克でも、自己疎外からの解放でもないことを指摘し、「粗野な共産主義」を批判していたのは、マルクス自身なのである。
このことを忘却し、マルクスが「粗野な共産主義」を提唱していたに過ぎないと考えることは、その後の専制的な国家共産主義、現在の共産主義への漠然とした嫌悪感の深い原因となっている。
共産主義(2)
その次の段階の共産主義についてマルクスはa、bに分けて次のように叙述している。
「a 民主的にせよ専制的にせよ、まだ政治的性質を持っている共産主義」
「b 国家の止揚をともなうが、しかし同時にまだ不完全で、まだ相変わらず私有財産すなわち人間の疎外に影響されている本質をもっている共産主義」
現実の世界には、(2)のaまでしか登場しなかった。
しかも民主的でなく専制的なものまでしか登場したことはない。理念的には、インターナショナルな共産主義bは目指されてはいたが、現実的にはaしかなかった。
しかも、マルクスの考えでは、共産主義は、国家を止揚するだけでは全く不十分である。
マルクスは共産主義を、(人間だけが持つ)私有財産の観念からの解放=人間の自己疎外からの解放であると考えていた。
ここで注意しておかなければならない点は、私有財産からの解放という言葉は、多くの人にまるで共産主義(1)の妬み(ルサンチマン)や均分化の完成のようにしか聞こえないかもしれないことだ。
これが共産主義が誤解されたまま嫌われる理由となっている。
しかし、他の生き物にはない私有財産の観念がどのようにして人間にだけ生じたのかは、極めて精神的な問題としてとらえることが必要である。
「自由な意識活動が、人間の類的生活である」とマルクスは言う。
それと対置して「動物はその生命活動から自分を区別しない。
動物とは生命活動なのである」と言う。
人間だけが生命活動を対象化するため、自由な意識活動を持っている。
しかし、そのゆえにこそ、人間だけが、今ここにおいてただただ踊るような生命活動から逸脱することがある。
「今ここ」を未来に投影された「目的」(典型的には財産の占有と保持)の「手段」と見なすことがあるのは人間だけである。
「目的」と「手段」が分離したとき、人は、限りなき働きのままの世界から疎外される。「今ここ」を、限りなき働きのままに、あるがままに踊る境涯を見失うのである。
聖書ではそれを「失楽園」という隠喩で表現している。
仏教で業と言うのも、キリスト教で原罪というのも、最奥の一点では、「意識化による今ここからの自己疎外」という意味において、同じである。
共産主義(2)は、私有財産と自己疎外のこの関係について意識しているが、未だその解決を果たしていない状態である。
真の問題の在処についてなにがしかの直感を有しているのだが、実際には「占有」の観念からは逃れられず、もがき模索しながらも、絶えず共産主義(1)に再び落下してしまう。
共産主義(3)
マルクスが真の共産主義と考えた「自己疎外からの解放」とは、ではいったいどういったものであろうか。
マルクスは、「私有財産はわれわれをひどく愚かにし、対象が直接に占有されるときにはじめて、対象はわれわれのものであるというようになっている」「それゆえ、私有財産の止揚は、すべての人間的な感覚や特性の完全な解放である」と言う。
ここには「占有の均分化」あるいは「占有の共有財産化」が、私有財産の止揚であるとするような「誤解された共産主義」とは全く異なる見地が示されている。
マルクスは言う。
「世界に対する人間的諸関係のどれもみな、すなわち、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感ずる、思惟する、直観する、感じとる、意欲する、活動する、愛すること、要するに人間の個性のすべての諸器官は、(中略)対象に対するそれらの態度において、(対象をわがものとする)獲得なのである。」
感覚と対象が出会い感応している「今ここ」にあるがままにあることだけが真の対象の獲得である。
「占有」という一種の強迫観念は、常に「今ここ」を単なる「手段」とし続ける「自己疎外」を生み続けるだけだというのである。
少し具体的に考えてみよう。
苦労をして汗まみれになって登ってきた山頂から遙か下界に広がる広大な光景を眺める。
その時、我々の感覚器官である目は、その光景との関係において、深い感動に満たされている。
私たちはその目の前に広がる土地を全部買い占め、専有物とし、登記所に登記する必要があるだろうか。
むしろそのように考えることが、今ここにおける対象の獲得を疎外してしまうのではないか。
その時、一陣の風が吹いてきたとしよう。
心地よい涼しさに首筋が洗われ、皮膚という感覚器官が喜悦する。
その時、その風を占有する必要があるだろうか。
そもそも、その風を占有することなどいったいどうやって可能であろうか。
マルクスの『経済学・哲学草稿』を初めて読んだばかりの二十代の私は、学生時代に一緒に暮らしていた女性と別離を余儀なくなれ、失意のどん底にいた。
そんな中、ネパールを旅していた折りだった。
私はとある田舎の村の中を一人で散歩していた。
ひとりのネパール人の少女が丘の上から坂道を下ってきた。
彼女は、頭の上に自身の頭の何倍もの大きさの鳥かごを載せていた。
その籠の中にはたくさんの鳥たちがいた。珍しい光景だったので私は見とれていた。
と、私とすれ違いざま、少女は満面の笑顔で私に微笑み、白い歯がこぼれた。
その瞬間に私の全感覚器官は彼女の微笑、彼女の存在を獲得していた。
私は百パーセントの幸福にあふれた。
少女はすれ違った後も、少し見返りがちに私を見ていた。
が、まもなく行き先に視線を戻すと、そのまま坂を下って行った。
私は追いかけて「僕のガールフレンドになってください」と申し込む必要があっただろうか?
その瞬間のネパールの少女との微笑との融合は、京都で一緒に暮らしていた恋人との無数の性行為よりも純粋で永遠であった。
なぜなら、あれら無数の交わりの際、私は「いつまでもこれが続くべきだ」「私は彼女を占有することを保証されるべきだ」という観念によって、常に「今ここ」を取り逃し続けていたからだ。
これがあのページにマルクスが「世界に対する人間的諸関係のどれもみな、すなわち、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感ずる、思惟する、直観する、感じとる、意欲する、活動する、愛すること、要するに人間の個性のすべての諸器官は、(中略)対象に対するそれらの態度において、(対象をわがものとする)獲得なのである。」と書いていたことなのだと私は忽然と悟った。
見上げると青空には雲がゆっくりと流れ、空には鳥が旋回していた。木々の梢は微風に揺れ、そこでも鳥が囀っていた。
この「今ここ」において、私は「限りなき働き」とひとつであった。そしてそれは毎瞬無限に展開し、万華鏡のように踊り続けていた。
マルクスは、人間が「限りなき働き」と不二でいるこのような状態を、破壊してしまうことを「自己疎外」として批判する。資本や権力が、「占有の無限増殖」のために「労働者を手段に貶めること」を批判する。
一方、労働者自身が「私有財産」に囚われた価値観の中で、占有の均分化を要求することについて、プロセスとしては十二分に認めているが、それが共産主義の根源的な姿であると考えているわけではない。
いいなと思ったら応援しよう!
![長澤靖浩](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/81407153/profile_8c031b37de69a5a14acde6381ec3fa20.png?width=600&crop=1:1,smart)