10歳でアスペルガー症候群と診断された甥 テルのおいたち (2)数学の道

承前

そのころから、今日という今日までテルには会わなかった。

僕の母の火葬で、久しぶりに親族が集まると、食事の席の席順で自然に過去の人間関係が浮かび上がった。

母の妹の娘(僕のいとこ)の息子は、もう2歳の頃から僕の娘を慕っていた。
昨日もそのすぐ前に座っていた。
25歳の青年だ。

テルは僕の息子のコスモをコスモにいちゃんと言って慕っていた。
コスモは嫁が二人目を妊娠中、コロナの心配もあって、今回は静岡からの参加を控えた。

するとテルは僕の隣に座った。コスモの次に話が合うのがおじさんなのだ。

「コスモにいちゃんが今日送ってきた弔辞は文章がうますぎた。感動した。ゴーストライターはおじさんでしょ」とテルは言った。

僕は「一字一句変えないで読んでくださいとコスモに言われたからそのまま読んだ」と言ってコスモからのラインを見せた。

「一字一句変えるな」これは僕が警察で調書をとってもらうとき、よく言うセリフだ。
そのセリフに始まるラインを見て、「本当だ。やっぱり文章がうまいんだ」とテルは言った。

「テルは今何をしてるんや?」

「数学。東京理科大学に通っている」

しばらくはブラブラした後のようだが、あの通信制高校から東京理科大学なら出世頭ではないか。

「毎日数学をしている」

「わかるよ。数式は宇宙を表現しているからね」

「そう。そうなんだ」

「時々、すべてが解明された解放感に襲われるだろう」

「そう。そうなんだ。ところでおじさんはなぜ今日、お経を読んだの?」

「数学と同じだよ。宇宙を表現しているからだよ」

「僕にはわからないな」

「単純な話からいこう。E=MC二乗だ。すべての物質は本当は質量×光速の二乗のエネルギーなんだ。それをお経には色即是空空即是色と書いてあるんだ」

「E=MC二乗はわかるけど、色即是空ってそういうことなの?」

「そのことが数学や物理学の方がわかりやすかったらそれをすればいい。
わかった瞬間、すべてが解放されるだろう。その瞬間に宇宙の真実に触れているんだ」

「中学生のとき、おじさんの『魂の螺旋ダンス』を読んだけど、僕にはよくわからなかった」

「流儀が違うからね。今ならわかるかもしれない。ほら、この本をあげよう。おじさんが訳した『浄土真宗の法事が十倍楽しくなる本』だ。この最初の部分、阿弥陀経のおじさんの訳を見てごらん。序分というのは前書きだ。釈迦がどこでその説法をしたか。だれがそれを聴いていたか。書いてある。聴いていた人の名前が列挙してある。坊さんはその名前を読み上げるだけだ。聴いている人には呪文にしか聞こえない。だからなぜ名前を列挙していることが大事なのかわからないんだ。だけど、ひとりひとりをよく見ると、知的障碍の人も、暗記だけ得意の人も、イケメンで女たらしの人も、アスペルガー症候群の人も聴いていたのがわかる。おじさんはそれがわかるように下段に訳した。そのとき、テルもこのお経を聴いていたんだよ。そして数学が好きな人は数式として理解してもいいんだよ。そのことが釈迦は言いたかった。だれもが自分の限界と個性の中から、宇宙の真実に触れる。それでいいんだ」

「そうなんだ。僕は僕の腹に落ちる方法で理解したいな」

「脳の認識構造のパターンが真実に触れることを邪魔している。けれども、数式がそれをすべて解体して、真実だけが光る瞬間があるだろう。たとえば、おじさんには芭蕉の『閑かさや岩にしみいる蝉の声』という句を聴いた瞬間にそれが起こるんだよ。だから文学をやっている」

「なるほど」

「ピュタゴラスは好きか」

「うん」

「ドナルドのマスマジックという動画は見たか」

「知らない」

「数学をやるなら基本中の基本だ。見た方がいい。あとでURLを送る。ギリシア哲学者はそれぞれの方法で宇宙の真実を表現した。タレスは万物は水であると言い、ヘラクレイトスは万物は火であると言ったけど、他に言葉がなかっただけで、言っていることはすべてはエネルギーなんだということだ。宇宙の構造を数学的に解き明かしたのはピュタゴラスだ。その基本中の基本はドナルドのマスマジックを見るだけでわかる。英語はわかるか?」

「英語はわかるよ」

「じゃあ、英語版を送る」

あとでテルから来た感想はこれだ。

「 見ました。数学の根底にある哲学を表現した傑作だった。結局のところ、自分の依りどころにする哲学か考えを持ち合わせてその原理に則って行動したい人間なので、僕はそれが神でも仏教でもなんでもいいんだけどね。数式が宇宙を書き表してるんだというのは、個人的にはしっくりくるので、当面はそれを信じていこうかな」

食事中の話の続き。

「ところで、学費はおとうさん(僕の弟)が出しているのか」

「出してもらっている」

「大変だな。稼がないといけない。バイトは?」

「プログラムならすぐ作れる。だから、プログラマーのバイトはしたけど。これを作ってと言われたら簡単にできるけど。なぜこんなくだらないものを作らないといけないのか、すぐわからなくなるんだ。だからやめた。で、毎日数学をしている」

「で、何の仕事をする?」

「大学院に行く」

「ははは。長澤家でおじさんに続いて二人目の修士様だな」

「いや、博士号もとる」

「ありゃま。それから非常勤講師か。それ、ミュージシャンと同じくらい不安定だな。僕の友達にもアーチストと非常勤講師はいっぱいいる」

「不安定だね。でも数学ができる」

まあ、そういうことだ。

他の親族は「やっぱり靖浩とテルの言っていることは何の話をしているのか、さっぱりわからんなあ」と言っていた。

もしも心動かされた作品があればサポートをよろしくお願いいたします。いただいたサポートは紙の本の出版、その他の表現活動に有効に活かしていきたいと考えています。