魂の螺旋ダンス (39)ディープ・エコロジー

・ ディープ・エコロジーとの出会い

このディープ・エコロジー・ワークショップの直後に私の書いたレポートが、『名前のない新聞』一九九三年六月号に掲載されている。

長くなるが、当時の感触や考えを忠実に映していると思うので、引用してみたい。

セラピー、セミナー、ワークの類は数多く体験してきた。

けれども、どこか不満だった。

それは多くのセラピーに、現実的な世界の問題を回避するような性質を感じていたからかもしれない。

僕は深刻化する地球の危機と切り結ぶような、深さと広がりを持ったワークを渇望していた。


そんなある日、友人の知らせで、ジョアンナ・メイシーとマーガレット・パベルが日本で「ディープ・エコロジー・ワーク」のツアーを行うことを知った。

「ディープ・エコロジーとは、人間中心主義に根ざしたこれまでの「環境保護運動」を越える「より深い」エコロジー運動の潮流である。

それは破壊されていく自然の痛みを自分のこととして感じ、アイデンティティを地球大に広げ、「地球としてのわたし」を生きる生きかたを意味する。

僕はそのワークにぜひ参加してみたいと思い、関西での準備会にかかわりながら、メイシーたちの来日を心待ちにしていた。


ところが、直前になってメイシーが体調を崩し、来日できないという情報が入った。

残念でならなかったが、メイシーの「一番弟子」だといわれるパベルがワークをリードするという。

貴重な機会であることには変わりはないと感じた僕は、関西でのワークの会場に向かった。


ワークは、マーガレット・パベルが「みんなで歌いましょう」と差し出した「待っていた相手は、私たち」という歌から始まった。

このことにはとても深い意味があったと思う。

やはり僕は心のどこかで「ディープ・エコロジーの大家であるメイシーが来て、何かをくれる」と考えていたようだった。

でもそれでは今まで僕が旅してきた「グルイズム」(グルと呼ばれる瞑想の師匠の恩恵を通して、自己解放を得ようとする道。常に有害であるわけではないが、大きな危険性をはらんでいると思う)と変わらない。

参加者みんなの顔を見回しながら、「待っていた相手は、わたしたち」と繰り返し歌っていると、ボロボロと涙がこぼれるのを覚えた。

それは敬愛するグルに会ったときに流れた涙にとても似ていた。

故郷に帰ってきたという感覚…。

その感触が今度は、誰か特別な人の中にではなく、自分や自分と手をつないでいる仲間たちの中にあったのだ。


僕にとって何といっても圧巻だったのは、二日目午前の「嘆きの輪」のワークだった。

一番中心に悲しみの輪、その周辺に怒りの輪、さらにその周りを見守る輪が囲んだ。

参加者は次々と輪の中に入って、怒りや悲しみを表現した。破壊される森林のこと、放射能汚染のこと、レイプされた女たちのこと、ダムに沈む村のこと等々…。


特徴的だったのは、ほかのセラピーのように個人的な生育歴から来る固着を解放しようとしているのではなく、もっとグローバルな広がりを持った痛みが表現されていったということだ。

けれどもそれは、個人的な体験と無関係というわけではなかった。

どのような問題にもっとも深くコミットしているかは、個人的な体験に根ざしていた。

ひとりひとりの感じ方はユニークで、かつグローバルな広がりを持っていたのだ。


参加者は怒り、叫び、胸をたたき、泣いた。

それを支える人、ハグする人がいた。

触発されて自分の怒り、悲しみを表現する人がいた。僕もいつのまにか、怒りの輪の中に入っていた。

高校の教員である(当時)僕の胸には、留年してやめていったTという生徒のことが、せりあがってきていた。

「オレはアホやから」と言って淋しそうな目をしてやめていった彼の顔が取りついて離れなかった。

「おまえはアホとちゃう。オレはおまえのやさしさやパワーが好きや。なんでそんなにものわかりよくやめていくんや!」

途中からは絶叫になり、絨毯をもみしだいて泣いていた。

真っ先に飛んできてくれたのが、参加者の中の学校の先生だった。

僕の手を握りしめて一緒に泣いてくれた。

うれしかった。


やはり、僕は自分の体験の中で最も切実なものを表出するしかなかったのだと思う。

様々な環境運動に取り組んでいる人たちは、その中での自分の切実な体験を全身を震わせて叫んでいた。

僕のはエコロジーという言葉に直接は結びつかない気もしたけれど、それぞれの現場で命を刻むものを怒り、悲しむという意味では、同じ輪の中にあったと思う。

僕はそれぞれの人の叫びに共感したし、僕も共感してもらえたと感じた。「命の綾の中に互いに織り合わされた」と感じた。

そしてそれは、手や足で相手の体に触れて、会場いっぱいに人間の織物を広げたとき、確かな実感として腹の底にしみこんだ。


「嘆きの輪」の後に昼食。

午後はH・Mさんの歌でみんなで歌って踊ってとてもハイになった。

ワークの最後に、部族の輪をつくり、これからどんなことにコミットメントしていくか、ひとりひとり表明していった。

みんなとてもさわやかないい顔をしていた。

けれども僕はそこに少し違和感を覚えた。


「悲しみや怒りを表現して、明るく元気になる。

それではいつものセラピーと同じではないか?」という疑問にとらわれたのだ。

確かにその悲しみや怒りは個人的な事柄だけではなく、広がりを持ったものだった。

そこはいつものセラピーと違っていた。

けれども、最後はみんな元気になって「シャンシャン」とういうのは、どこかおかしいのではないか?


その疑問を、ワーク終了後のスタッフの宴会の席で何人かの人に問いかけてみた。

「みんなが同じように明るく元気になるというのは、やはり違和感がある。

覚めている人とかがいたほうが、普通だし、安心できる」とK・Rさんは言っていた。

T・Tさんは「集団みんなが入り込んでしまうというのも変だし、個人のレベルでもすべて入り込んでしまうのは変。深く入り込んで、しかも一部は覚めているというのが、気功の極意だし、本当のメディテーション、東洋の道だ」と言っていた。

T・Kさんは、「今回の参加者はすごく大人の人が多いだと思う。とてもやさしいからみんなの前では明るくしていたけれど、悲しみや痛みは捨てていないと思う。ちゃんと自分の中に持ったままだと思う」と言った。


「ああ、そうか」とストンと落ちた。

考えてみれば「そりゃそうだろうな」と思った。

だって本当にあんなに深い怒りや悲しみを表現していた人たちだもの。いろいろな現場で深く問題にかかわっている人たちだもの。


「そうか、みんな悲しみや怒りを腹の底深く蓄えたまま、それでもつながりあえた喜びを全身に表して、それぞれの現場に帰っていったんだな。」そう考えると「やっぱりとてもいいワークだったんだな」と思えた。


さて、本番はこれからである。

・「生命の織物」は仏教思想か?

このようにディープエコロジーのワークの体験は、私にとってとても貴重なものとなった。

しかし、そのこととは別に私には、一点だけ疑問があった。

それは超越性の次元に関することである。

ディープ・エコロジーには、超越性宗教としての仏教の持つ「超越性の原理」が含まれているのであろうか。

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