魂の螺旋ダンス 改訂増補版 (13) 超越性宗教の誕生へ

第3章 超越性宗教

・ 超越性宗教の誕生へ

二章で見てきたように、部族シャーマニズムの有していた「聖なるものへの個的で直接的な回路」は、国家宗教によって抑圧されていった。
「書かれた民族神話」によって王権が正統化され、祭司が宗教的権威を独占していった。

もはや個人が直接的に聖なるものにつながることは許されない。
もし自分はそうできると主張するなら、邪教によって人心を惑わすものとして弾圧され、それでも妥協しなければ死が待っている場合すらあった。
国家による処刑である。
多くのシャーマンは、国家との妥協を選び、体制内の存在となっていった。

だが、国家によって組織されすぎた精神文化は、やがて形骸化の道を免れない。
聖なるものへの回路を弾圧し過ぎると、エネルギーは枯渇していく。
そして遅かれ早かれ新しい「直接的な回路」によってエネルギーを補填し、再生されることが必要となってくる。

そこには、国家宗教の孕む一つの大きなジレンマがある。
聖なる回路の活性化を弾圧しなければ権力の掌握は不可能だ。
だが、一方弾圧は、民衆のエネルギーそのものの枯渇につながる。
あるいは、弾圧の果てに爆発的な反乱が起きるか、新たなカリスマ的シャーマンが現れる日が来る。

だが、ともかく世界の各地で部族社会は、国家によって束ねられていった。
その過程で部族社会の宗教性は、国家の都合で編集されながら、国家に引き継がれた。
変性意識の直接経験は、書かれた神話に封じ込められ、国家イデオロギーを支える道具となった。

こうして世界の各地に古代国家が誕生した。

ただし例外はある。
アフリカやオーストラリア、南北アメリカ大陸、またユーラシア大陸の北部や、その他世界各地の「辺境地帯」などでは、広大な地域が、国家に編入されないままに残り、部族社会が継承されていった。

それゆえに、これらの地域では随分と歴史を下ってから、部族社会が裸のままで、「侵略者」と出会うことになる。
つまり国家宗教段階や、その超克としての超越宗教段階を経ないままに、近代において部族シャーマニズムと侵略的な性質を帯びた絶対性宗教が直接ぶつかり合うことになる。

そして多くの場合、部族社会は壊滅的な被害を受ける。北米社会における部族シャーマニズムとキリスト教(が侵略的性質を帯びたもの)の出会いは、その典型である。

だが、部族シャーマニズムは完全に滅びたわけではなかった。
部族シャーマニズムのスピリットのなにがしかを保存し、伝えることに成功した部族も(数少ないが)存在する。
それだからこそ、私たちは、今そのスピリットの何がしかを発展的に統合することができるのである。

さて、各地に誕生した古代国家の中には、比較的安定したものもないではなかった。
が、その多くは別の古代国家とのぶつかり合いや、内部からの反乱によって、興亡を繰り返した。
こうした古代国家の崩壊や興亡は、その内外にいた人々を、非情な運命の中に放り出した。

人々の置かれた立場を想像してみよう。
そこでは、もはやかつての部族共同体は昔ながらの機能は失っていた。
そしてその代替になるはずだった国家も、今や危機に瀕している。
彼らにはよるべとなる母胎のようなものが失われていた。
殺戮や略奪は日常的な事件であり、生きて死んでいくことに関する根源的な意味感覚そのものまでもが、破壊されていた。

超越性宗教の創唱者たちが、世界各地で歴史の中に登場するのは、この国家の再編成に伴う戦乱と殺戮の時期である。
かつての先住民的共同体も、その精神文化を収奪して成立した古代国家も、もはや個人を取り巻く安定した文化装置ではなくなった時代である。

そこでは、無力なままの裸の民衆は、それぞれ個として、徒手空拳で世界そのものと向き合っていた。
それは悲惨な運命ではあったが、人々が剥き出しの個として世界と向き合う絶妙の契機ともなった。

混乱の中、超越性宗教はいずれも、裸の個人がすべての地上の権威を相対化して、直接的に超越性原理につながる運動として興る。
ここで私が裸の個人というのは、部族共同体からも、国家的なものからも投げ出された、徹底的に無力な存在である。

だが、徹底的に無力で裸であるからこそ、そこに明らかになるものこそ、超越性原理なのである。

超越性宗教の創唱者たち(イエスや仏陀など。日本においては鎌倉仏教の始祖たち)は、それぞれの方法で、聖なるものとの直接的な回路を開いていく。

聖なるものへの「直接的な回路」を有しているという意味では、彼らはきわめてシャーマニックな存在である。
ある見方からすれば彼らもまたひとりのシャーマンであり、超越性宗教の創唱は、祭司の手からシャーマンの手に主導権を取り戻す「シャーマニズム復興運動」という側面を持つ。
(日本においては、中世は、土着のシャーマニズム文化復興の一大契機であった。)

個的な回路が取り戻されたという意味では、物事は元の位相、部族シャーマニズムの位相に還ってきている。
だが、それはまったく同じ地点なのではない。

超越性宗教の創唱者たちの唱えだしたものが、部族シャーマニズムのまるっきり同じ地点への帰還であるならば、それは円還運動であって、螺旋運動ではない。
だが、超越性宗教と部族シャーマニズムには、決定的な階層の違いがある。
それは、元の位相に回帰しつつ、螺旋状の階層を昇っている。

・ギリシア哲学における超越性原理の萌芽

人類史の中、超越性宗教の萌芽ともいうべき思想を開陳する先駆的な哲学者は世界の各地に現れた。
ここではギリシア哲学の例を概観しよう。
ミレトス学派の自然哲学は、通俗的には、神話から自然科学への過渡期であると説明されることが多い。
だが、それは「近代科学主義」で世界を席巻した欧米によって、その科学の源はヨーロッパのギリシアにあるとしておこうとする偏った見解かもしれない。

だが、私は思うのだが、自然科学というものに量子力学なども含めた一種哲学的な存在論まで含めて考える時、「科学という名の下の超越性宗教」の始原はギリシア哲学にあるというのは、ある意味で正鵠を得ていると言うべきではなかろうか。

いずれにしろ、彼らは万物の根源(アルケー)の探求を神話的偶像的なものから解放し、存在とは何かという哲学的思考を開始したことは確かである。

以下、地域や時代、学派についてはやや横断的になるが、ギリシア哲学における超越性原理の探求という視点から、彼らの探求や言及を整理してみたい。

タレスは万物の根源は「水」だと考えた。
これは一見、幼稚な考えのように見える。
しかし、象徴的な次元で考える時、彼が「水」と言ったのは、現在でいう「エネルギー」ということができる。
存在は変幻自在なエネルギーから成り立つとしたのである。

ヘラクレイトスは万物の根源を「火」であると考えた。
焚き火を見つめているとき、一瞬一瞬、千変万化する炎の性質は、水よりもさらにエネルギーのダンスを彷彿とさせる。
現在の科学哲学でも、瞑想や臨死などによる神秘体験でも、万物の本質を「光」とすることがある。
アインシュタインが、存在の成り立ちとして、エネルギーは質量×光速の二乗であるという式を打ち立てた、その観方である。

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