無碍光とわたしたち

ある浄土真宗の僧侶の方が別の方のタイムラインで「愚かなことは私。まともなことは仏」という意味のことを書いておられ、僕は強烈な違和感を感じた。
文脈の中で言ったとおっしゃっていたが、僕にはいかなる意味でも違和感があった。
浄土教の祖師たちはそんなことは言っていないと僕は思う。

試みに公立学校元教員として少し考えてみよう。
自分には何の取り柄もないと悩んでいる女の子がいたとしよう。
その子に上記のような言葉を投げかけたら、もっとひどいことになるだろう。
その子が自分の欠点として悩んでいることがあったとしよう。
それがコンプレックスになっていたり、いじめの原因になっていたりすると悩んでいるとしよう。
それはその子の優しすぎるところかもしれない。
それはその子が思ったとおりにポンポンと物を言いすぎるところかもしれない。
容姿のどこかにその子が自分でもっとこうだったらよかったのにと思っている部分があるということかもしれない。
しかし、それはその子の個性である。
自分や、周囲でさえ、ひどい場合は教員や親でさえ、欠点だと思っているかもしれない。
が、そこに仏智が射し込むと、それは輝きを放ち始めるだろう。
この世にその子がいなければできなかった何かが実現する因となるだろう。

私たちが無碍光を必要としている(だけ)というのは、一方的な見方だと僕は思う。
無碍光の方でも私たちを必要としている。
なぜなら、そこに何らかの限界のある「光の障碍物」がなければ、私たちは光を見ることができないからである。
私たちが見ることができるのは、「光源そのもの」と「光の障碍物」に反射した光だけだ。
何もない真空状態であれば、光は素通りするだけでそこは真っ暗闇だ。
宇宙空間が真っ暗闇なのはそのためだ。
地上から見る空が青いのはそこには空気があり、空気中の粒子が青い光を乱反射するからだ。
「光の障碍物」がなければ、この世は暗黒だ。
ただ光源が光を放っているが、それはどこまでも果てしなく暗闇の中を進むだけだ。

これによってわかるだろう。
私たちが無碍光を必要としているだけではない。
無碍光の方でも私たちを必要としている。

私は仏教の往還二相を次のように表現したい。
往相(悟りに向かって往く姿)とは私たちが無碍光に目覚めそれに身をさらしていくプロセスだ。
還相(悟りをひらいた自分がこの世で周囲に光を放つこと)とは、
無碍光に必要とされるままに、私たちが自分自身にしか反射できない光を反射することだ。

私たちは皆、光の障碍物だ。
ブラボー。
だからこそ、それぞれの光を放つことができるのだ。

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