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この世に投げ返されて(34)   ~臨死体験と生きていることの奇跡~

(34)

 母の病室に戻りました。病院が衣服を着替えさせ、薄化粧をしてくれています。遺体の手を握り、病室の天井を見上げます。
 私の臨死体験では、一気に全宇宙に光る蝶が舞い広がりました。が、ゆっくりとしたプロセスを歩んでいるとするなら、今、あの天井の辺りから母は自分の遺体と傍らのふたりの息子を見下ろしているかもしれない。ですが、その気配のようなものは何も感じませんでした。
 30分もすると、地元の小さな葬儀屋が遺体を引き取りに来ました。エレベーターにストレッチャーを乗せて上がってくると、手際よく運び出し、駐車場に置いてあった車の後ろからスライドさせて積み込みます。
 看護師たちが何人か見送りに来ていて、車が出発するのを一緒に合掌して見送ってくれました。もうバスのない深夜になっていました。私は電動車椅子を小一時間走らせて自宅に帰りました。
 翌日、霊安室の位置と開室可能な時間帯を葬儀社に確認すると、必要最低限の親族にだけ連絡を取りました。
 約束の時間は午後の二時~五時でした。指定された場所に行くと、国道沿いに小さなプレハブ風の家屋がいくつか並んでいました。そのうちのひとつが、面会可能な霊安室になっているということでした。葬儀社の担当者が時間通りに現れて部屋の鍵を開けてくれました。畳敷きで数名が集まることができるスペースがあり、その奥に白い化粧布に覆われた棺が安置されていました。
 棺の前には簡素な花が添えてあり、線香立てがあります。「では5時ごろ、鍵を閉めに参ります」と言って葬儀社の女性はいったん退きました。
棺の窓は開いていて、母の顔が覗けます。私はその顔と一対一で対面しながら、ふたりだけしかいない部屋で最期のときを過ごしました。
母の母、私の祖母は小豆島の貧しい農家の出身でしたが、神戸に出てきてから財閥の愛人となりました。一時、祖母は本妻よりも、夫の家の中心に深く入り込んでいました。
ですから、母と叔母の姉妹はその財閥の娘として育てられました。母は戸籍上、財閥の本妻の子とされていたのです。が、実際に産んだのは愛人であった祖母です。
しかし、いつの頃からか、祖母と本妻の立場が入れ替わりました。
祖母とその子どもふたりが本家から外に出されたとき、母は戸籍上、祖母の養女になりました。
昔の手書きの戸籍を見て、その複雑な経過を読み解いたのは、私自身が結婚のために戸籍を取り寄せたときでした。
祖母が亡くなるとき、母に「あんたとはずっと一緒やったな。さいなら」と言ったと聞きました。「ずっと一緒やった」の意味の重みを感じました。
戦火の中、近くに落ちた焼夷弾の炎に焼かれてしまうそうになるところ、蒸し熱くなってきた防空壕から、赤ん坊だった母を抱いて飛び出して逃げたのも祖母です。炎を突っ切って逃げ切らなかったら、母は死んでいて、私がここでこの書き物をしていることもなかったのです。
母は中途までお嬢さんでしたが、本家を追い出された際、突然、貧しい境遇に追いやられ、勉強して這い上がるしかないと心に決めたそうです。
私が幼いとき、母と銭湯に行くことが多かったのを覚えています。
幼いながらに耳年増だった私はあるとき、脱衣所で母に尋ねました。
「お母さん、ベトナム戦争って、原爆使うの?」
「いいや、原爆は使わへん。そやけど、他の残酷な武器をいっぱい使うねん」
「どんなん?」
母は特別詳しいわけではなく、想像をめぐらして言っただけだと思いますが、こう言いました。
「うーん。機関銃から弾がいっぱい飛び出してな、人間が蜂の巣みたいに穴だらけになって死んだりな」
その時そばで親子の会話を聞いていたどこかのおばさんが目を剥いて私たちを見ました。幼い子どもに向かって、なんという残酷であからさまな表現をするのだろうと思ったのかもしれません。
前にも述べましたが、母は思ったことをそのまま口にする傾向の強い人でした。このときも、ベトナム戦争の残酷さをきちんと認識させようとかそのような熟慮の末ではなく、ただ目に浮かんだ光景をそのまま口にしたに違いありません。
しかし、幼い私は直感的に理解したと思います。ベトナム戦争というのは人として絶対にしてはいけないことをアメリカという国がよその国に攻め込んでやっているのだと。全身に鳥肌が立ち、それはダメだ!と思いました。
別のあるとき、これも銭湯の脱衣所だったと記憶しますが、風呂上りに服を着ながら、対話しました。
「おかあさん。ヒッピーって何?」
「うーん。自然のままに生きるのがいいという考えの人たちでな。ベトナム戦争に反対している」
「え」
幼い私は心を震わせました。
私が驚いたのは、テレビなどではヒッピーとフーテンの違いがよくわからず、何か汚らしい恰好で自分勝手な生き方をしている人々のように描かれていたからです。
母のこの言葉を聞いたとき、私はその認識を根本的に改めました。
「自然のままに生きる」のも「ベトナム戦争に反対する」のもとても正しいと思いました。
後に「高校を卒業したらインドに行って瞑想の修行をする」と私が言い出したとき、母も父と一緒になって反対しましたが、実のところそうするのが最もまっとうな人の道だと考える種を、幼い私の心に植えたのは、母の言葉だったのです。
そんなことをあれこれ思い出しながら、瞑目している母の顔とふたりきりで対面していると、そこに最初に到着したのは、母の妹とその娘(私の従妹)でした。
 「明日には遺体は火葬されてしまうねん。遺骨は一切拾わないつもりやから、何もかも宇宙に還るねん。遺骨もお墓も無し。そうするこに反対意見はない?」
 と私は叔母たちに確認しました。
 「ああ、そんでええ。そんでええ」
 叔母は言いました。
 インドで瞑想して過ごしていた日々、ヴァラナシーでは川岸で火葬されている遺体がめらめらと燃えながら、空に立ち上っていくのを見ました。毎日、毎日、たくさんの遺体が焼かれ、空に立ち昇っていきました。
 その灰はガンジス川に投げ込まれ、亡くなった人はそれによってモクシャと呼ばれる完全な解放へと放たれたのだとヒンズー教徒たちは信じていました。
「ほな、最後のお別れや。棺桶の窓から顔見たって。何でも最後に言いたいこと言うたって」
私が言うと、自身かなり衰えの来ている叔母は、従妹に肘のあたりを支えられながらよろよろと棺に近づきました。
「ほら、おかあさん。ここからおばちゃんの顔が見えるわ。きれいな顔してはるわ」
従妹に言われて場所を譲ってもらうと叔母は、棺の窓から母の顔を覗き込みました。私の知らない、姉妹の幼い時代の話から、たくさんの思い出を叔母は語っていました。子どものときからふたりきりの姉妹として過ごしてきた年月は波乱に富むものであり、その歴史には重みがありました。
親族やご近所や職場の人などが大勢集まり、葬儀社の司会者に名前を呼ばれるままに列に並んで焼香をする葬儀には、このような長い遺体との対話はありません。
では、通夜の間にひとりずつすればよいように思います。が、父のときなどを思い起こしても、通夜では訪問者が棺をよそに飲み食いしてよもやま話をするばかりで、遺体と直接対話する時間はとても少なかったように思いました。
叔母の話はやがて私が生まれた後のエピソードにも至り、「銭湯の横の焼き肉屋によう、やっちゃんを連れていったなあ」などと話しているが、私にはその記憶がありませんでした。
 続いて母の顔が一番見える位置を叔母は従妹に譲りました。母が産んだ子どもは私と弟の男ふたりでした。そんな折りに叔母に女の子が産まれました。
 「おばちゃんは、私にとっても初めての女の子やと言うて、よう可愛がってくれたなあ」と話しています。この従妹に向かって「初めての女の子だ」と言っていたとは、亡くなってから初めて聞いた台詞でした。
 このようにして縁の深かったものたちの長い対話、お別れをした時間は、形式に沿って葬儀社が信仰する葬式よりもずっと意義の深いものに思えました。
 やがて、私の娘や息子など、来る予定だったものたちが揃いました。
私は改めて自らが現代語訳した「般若心経」や「正信偈」をやさしい現代日本語で読みました。
 それから私のオリジナル曲「まわれすべての命をのせて」をギターで弾き語りしました。

まわれ まわれ すべての命をのせて
そのまま光に溶け込んでいけ

 歌い終えると皆で合掌し、「これで完全に永遠の今ここの光に還りました」と私は言いました。皆、頷いていました。
 「永遠の光やて」と叔母がつぶやきました。それから「やっちゃん。私のときもそうやってあんたが見送ってえな。よう知らんお坊さんより、ずっとええわ」
と私に向かっていうのでした。

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