この世に投げ返されて(6)臨死体験と生きている奇跡
発句はその短詩型の芸術様式の中にあらかじめ欠落を孕んでいます。西洋の美術に置きかえると片腕のミロのヴィーナスのように。そこにあるはずのものがない。ないがゆえに、空っぽのままに無限の可能性を秘めて、変幻自在に揺らめいているのです。
なぜなら発句はもともと俳諧連歌という連綿として続いていく文芸の冒頭の五七五を指すものだったからです。少なくとも、その日本最高の巨匠である芭蕉の時代には、それは連歌の冒頭の句であるという意識が明瞭でした。そのため、それが発句として投げ出され、後に続くはずの句が欠落したままであるとき、そこには禅でいうところの空が表現されていたのです。
思春期からそのことに注目していた私は、臨死体験のいわく言い難い風光を発句という形式でならば表現できないかと探り始めました。そのようにして多くの発句を詠みましたが、もとより本格的な修練を経ているわけでも、季語という重要な要素についてしっかり学んだわけでも修得しているわけでもありません。
飽くまでも素人芸に過ぎないのですが、日本人が臨死体験を表現する際のひとつの大いなる可能性を孕んだ短詩型文学ではないかという思いは強いのです。
発句は後に五七五で完結するミクロな額縁を持った絵画として成立したいわゆる「俳句」とは明らかに異なる芸術様式です。連綿と続くはずだった連歌の欠落という虚空を孕み、不完全であるがゆえに、無限の可能性にあふれた空に向かって開かれたままにあるのです。
もしも人がこの世の言葉を用いて、あの世とこの世を吹き抜ける風そのものを表現しようと願ったとするなら、私にはそれ以上に適した形式はないのではないかと思えたほどです。
以下に私が臨死体験を表現しようと試みて詠んだ拙い発句のいくつかを記録しておきたいと思います。
冬木立枝間遥かに星の咲く
野垂れ死に瞳の奥を雲流る
しゃれこうべやがて芽を吹く蕗の薹
春疾風夢も不安も吹き飛んで
珈琲の銀河の渦を掻き廻す
ナメクジや行方知らずの銀の道
鞦韆の勢い余り鳥になる
空に星 田には火垂るの 鏡かな
Countless stars in the sky
An equal number of fireflies are in the rice field
It is a miracle mirror
神の手の技の光るや朝の薔薇
雨上がり脳に染み入る蝉の声
朝露や無数の十字に耀けり
木漏れ日や君も私も光のかけら
風鈴や畳の上に我は無し
墓洗う首を上げれば夏日かな
何光年星から届く蝉時雨
かはひらこ瞬きすれば曼珠沙華
満月や血潮の満ちるひたひたと
庭の池雲の縮れて月の冴ゆ
月見舟舳先に分かる雲の波
星月夜合わせ鏡の湖面かな
天の河わたし飛び込むAUMかな
吸う息の往き着く果ての虚空かな
燃えていく細胞の夢放たれて
我という夢が燃え尽き喉仏
冬日射し定から滅へ白障子
今ここで光は時を知らぬまま
~限りなく広がる覚醒のさざなみ~
~それでもまた
行く河の流れに
名詞を置く
人の営み~