タレスのいう万物の根源としての「水」は、光のエネルギーの象徴か、物質としての具象的な「水」かという件。

 薬で眠くなり遅々として進まぬ私の読書、井筒俊彦「神秘哲学」もやっとミレトス学派に達する。
 井筒は「絶対超越的全一者として超意識的に自覚される自然のみが直ちに神そのものなのである」、これをミレトス学派の「絶対的斬新さ」という。
 これはまた私自身の臨死体験とも一致して納得のいく汎神論的立場である。
 しかし、井筒は言う。「タレスが万物の根源は『水』であると説いたとき、彼は最高領域に於いて捉えた窮極的全一としての自然を、最低領域の自然によって無差別的に表現したのであった」
 井筒はこの「水」が象徴的表現であることを認めない。
根拠は
(1)「近代の優秀なギリシア学者がほとんどすべて一致して主張する」
(2)「アリストテレス自身の表現によっても推察されるように、彼の「水」は形而上的象徴的な水ではなくて、明白に物質的な「水」であった」
 これだけである。
 私としては近代の優秀なギリシア学者が何をどう主張しているのか、詳しく聞きたいところだし、アリストテレスがどのような根拠をもってそう言ったのか、解説してほしいところである。
 井筒自身も述べているようにここには、神としての自然と、具体的物質としての自然のめちゃくちゃな混乱がある。タレスはそういう、めちゃくちゃな混乱をしていた。ミレトス学派はそういうめちゃくちゃな混乱をしていたというのが、井筒の主張である。
 だが、その根拠としてあげられるものが、非常にあいまいな上記の2点でしかないなら、むしろタレスは水を宇宙の無限のエネルギーの象徴的表現としていたと考える方が遥かに整合性があり、混乱が少ない。
 そもそもタレスについては殆んど文献が存在しないのであるから、伝わる言葉から整合性のある説明を考えるのが、思想家の仕事となるしかない。
 上で近代の優秀なギリシア学者と言われる人たちはいつごろの誰のことなのだろう? 繁栄する西欧物質文明がギリシアに端を発したとする方が都合のよかったイケイケドンドンの時代の「主張」と、生死を超えた哲学としての整合性を冷静に客観的に重視してもかまわない私たちの「主張」は違っていてもいいのではないか。

 私はタレスが万物の根源は水であると言ったとき、その言葉でタレスは無限の変転するエネルギーを象徴していたという説に、飽くまでも立つ。

 根拠は「絶対超越的全一者として超意識的に自覚される自然=神」という境地を知ったものが、万物の根源(アルケー)を相対的な一種類の物質(たとえば水)であるという主張を本気でするような混乱は、「ありえない」からである。
 なぜなら彼は自我のないままに、山でもあり、川でもあり、鳥でもあり、花でもあり、人でもあるその境地を既に知ったのであるから。

 そもそも井筒が上で語る近代の優秀なギリシア学者たちが活躍した時代、アインシュタインはまだE=mcの二乗という公式を発表していなかったのではないか?
 にも関わらずそれを本質的には知っていたのが、ミレトス学派なのである。

 ちなみに過去に私はこの「タレスの水=エネルギー説」に立つ講演を一度だけ聞いたことがある。京都女子大学の万年講師、ギリシア哲学が専門で詩も書いている永井康視の講演である。サニヤス名は忘れたが、彼は古いサニヤシンである。
 私は20代のとき、サニヤシンの文芸誌を編集していて、彼の京都の自宅に詩の原稿をもらいに行ったことがあるのである。そのとき「まじわり」という永井さん自身の詩集とロンギノスの「崇高について」の翻訳をいただいた。

『魂の螺旋ダンス』改訂増補版
https://note.mu/abhisheka/n/ndb7c61ea9bba
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『魂の螺旋ダンス』改訂増補版 加筆の章
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ギリシア哲学における超越性原理の萌芽
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