弥陀仏は自然のやうを知らせん料なり

S さんより

長澤 靖浩 さん
限りなきはたらきのままに!長澤さんは念仏をすて、浄土教ならびに全ての宗教に縁を切り、限りなきはたらきのままにといただかれていますが?どうも阿弥陀如来のはたらきではなく仏教とは異なる宇宙の?あるいは自然の?何かの働きのような気がするのですが?どうなんでしょうか?

レス

私の中では、物語が違うだけで同じです。
親鸞は弥陀仏は自然(じねん)のやうをしらせん料(りょう=ネタ)なりと言ってます。
ここが一番、余計なものすべてを脱ぎ去ったところと思います。
それと異なることを私は言ってるつもりはありません。
そんなにいくつもの限りなき用きがあるもんでしょうか?
異なると言われたのは、伝統的な表現を棄てた私をそう言いたくなるのでしょうか。
前にも書きましたが、親鸞がそれまでの伝統を活かして究極を説いたのは、その方が広がるからと思います。また、自らも出発点においては、確かにそこから出遭いを深めたのだと思います。
しかし、弥陀仏は自然のやうをしらせん料なりと言った時点で、全宗教共通の地平に出ており、私はそれと異なることを言ってるつもりは毛頭ありません。

無上仏と申すは、かたちもなくまします。

かたちもましまさぬゆゑに、自然(じねん)とは申すなり。

かたちましますとしめすときには、無上涅槃(むじょうねはん)とは申さず。

かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すぞ、ききならひて候ふ。

弥陀仏は自然のやうをしらせん料(りょう)なり。

この道理をこころえつるのちには、

この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。

             (末燈抄)

阿弥陀仏を人格神的にとらえるという古い時代にしか通用しなかった誤謬を避けるためには、
晩年の親鸞自身の著した「末燈抄」のこの部分はひとつの要(かなめ)である。

この

弥陀仏は自然のやうをしらせん料(りょう)なり。

という文の、中でも主に「料」を巡っての考察を私の古いブログ記事から再掲しておこう。

「弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり」の「料」の訳について。

多くの真宗僧侶や学者は、この「料」という見慣れない用法の言葉を「ため」「手立て」「方便」などと訳している。

一方、「料」の意味を辞書で引くと、「ため」と書いてあるものはあるが、「手立て」「方便」と書いてあるものは見つけられない。

「ため」はなんとなく言葉不足で「ための~~」であるという「~~」が欲しいところである。「~~」に「方便」「手立て」を入れるとうまく当てはまる。

「ための方便・手立て」である。で、意味がすんなり通る。

が、その意味が辞書にないことが悩みであった。

また方便という言葉は、仏教では盛んに用いられるのに、ここではそれを使わず「料」と親鸞は言ったのであるから、それを「方便」に戻してしまうのは、せっかく「料」を用いた意図を損ねる気もしていた。

と、恋人に言うと、彼女は「ネタという意味じゃないの?」と言った。


「料理の料はネタという意味よ」と言うのだ。

「それって小説のネタと同じ意味のネタだよね。たねをひっくり返してつくった現代語だよね」
「そう、漫才のネタもそうだし」

それで改めていろいろな辞書を引くと、漢字ペディアには
料の意味としてこうあった。

①はかる。おしはかる。「料簡」「思料」
②もとになるもの。使うためのもの。たね。「衣料」「資料」
③てあて。代金。「料金」「給料」

②に「たね」という意味が見つかった。

この場合の「たね」は現代語の定着済みのスラング「ネタ」とほぼ同意である。

僕としては深く納得した。

よって、この「料」は「ネタ」と訳すのが最適だと思う。

これまでの真宗の歴史になかったことかもしれないが、親鸞が「料」と言った意に沿うことにおいて、「ための方便」というよりすぐれていると思う。

よってこの部分の、私訳はこうなる。

限りなき用き(はたらき)(阿弥陀仏)というのは、
宇宙の無限の願いによって
自ずからそうなっていく様子を表現しようとしたネタなのです。

阿弥陀仏はそのままでは固有名詞のように聞こえ、神格化しやすいので、僕は必ず無量の智慧と命というサンスクリット語の原意に戻って「限りなき用き」と訳すほうがいいと考えている。

しかし、ネタとはっきり自覚しているなら阿弥陀仏という言葉を用いても別にかまわない。

ただし、できれば、阿弥陀仏という言葉を用いるのは「ネタである」と言っているこの部分だけにした方がいいだろう。(私はそれを選択する。)

他はすべて「限りなき用き」と意を訳した方がいいだろう。(私はそれを選択する。)

いろもなく かたちもなく
おとだけがのこり
さいごにおともきえはてて
無上涅槃と憶います


ちなみに私を南無阿弥陀仏の名号を棄てるところまで、追い詰めたのは48願に見られる差別思想です。

野狐禅について
私の感覚では、伝統どおりだから大丈夫と思うとき、杖がある感じの方がヤバいんです。
どこにもつかまるところなく風に乗ってるだけの、このキワキワ感が持続していると、すべてが冴え返っている感じがします。

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