年末シャーマニズムワーク(3)百年後の世界
承前
さて、濱田氏は今日の3つ目は全員同じジャーニーをしようと思うと語った。
ミドルワールドで百年後の社会を見に行こうというのである。
見てきた世界を参加者でシェアすることで、これからどうしていけばいいかを考える契機にしようということだった。
アンダーワールドへ行くには何らかの地下への入り口を見つけて下りていった。
アッパーワールドへ行くには人工物ではない何らかの手段で(ジャックと豆の木の雲へとつながる蔓のようなものなど)上昇していけばよかった。
だが、「ミドルワールドで百年後に行くには、どのようにして行けばいいのですか?」と私は尋ねた。
答は「見よう意志するだけで可能です」ということだった。
もとより、ネオシャーマニズムの考え方では、ミドルワールドは時間軸のない世界として想定されている。
故に、今ここで百年後のヴィジョンを見るということは、そう意志するだけで原理的に可能だということだった。
しかし、私が引っ掛かったのは「ヴィジョンの受動性」についてだった。
見ようと意志するだけでは、太鼓の音が鳴り続けていたとしても、トランス状態でヴィジョンを受動的に受け取ることが困難で、どうしても思考によって未来予想図を作りあげてしまうのではないか?
現在の世界状況を自分がどう感じているか、正確なデータによる予測とはいかなくても漠然とそこから類推される未来図を思考で組み立ててしまうのではないか?
そこで私が考えたのが、ドラえもんに出てくる「どこでもドア」を開けるというものだった。
開けることが合図で、そこから入った行った百年後の世界に関しては、受動的に「ヴィジョンの展開」にまかせうる気がしたのだ。
果たして、私の見た百年後の世界は以下のようなものだった。
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