魂の螺旋ダンス 改訂増補版(14) 死と再生の質 超越性宗教のパラドックス
・死と再生の質
さて、部族シャーマニズムと超越性宗教に通底する個的な宗教経験には、共通する構造がある。端的に言うならばそれは「死と再生」という構造である。
ところが、(第二章でも考察したが)この「死と再生」という構造は曲者である。
それがあまりにも根源的な構造であるがために、それを言うなら、ほとんどあらゆる段階の精神文化の類似性を指摘できることになるからだ。
だが、そこには無視することのできない質的な違いがある。
構造的な類似性だけを指摘するのではなく、その質的な分別が、重要である。
国家宗教では、形骸化した儀式において、死と再生が「演じられる」だけだ。
その経験は質的には無内容に近い。
少なくとも、儀式から疎外されている個々の民衆にとっては、支配者の演じている儀式は、直接経験ではなく、広い意味での「イデオロギー」にすぎない。
部族シャーマニズムにおいて、個々の若者がバンジージャンプしたり、自然の中で単独でヴィジョンを求めたり(ヴィジョンクエスト)する直接経験は、非常に切実なものだ。
それは真正の意識変容体験に結びつく場合が多く、国家宗教的な儀式とは、けっして同列には扱うことができない。
では、部族シャーマニズムと超越性宗教とを比べた場合はどうなのだろうか。
その両者は、切実な個人的変容体験を伴うという点では、同じ位相にある。では、そこには他に何か質的な差異があるのであろうか。
私の考えでは、部族シャーマニズムの「死と再生」と超越性宗教における「死と再生」には、その方向性において、非常に特徴的な差異がある。
私なりの単純な言い方を許してもらうならば、「部族シャーマニズムは水平方向に開く」。
それに対して超越性宗教は「垂直方向に開く」。
超越性宗教における自我の死とそれを通じての解放は、部族シャーマニズムにおけるそれに比べるならば、意識の垂直方向に向かって徹底している。
なぜならば、そこではもはや帰還するべき共同体的規範そのものが、崩壊し、失われているからである。
超越宗教の創始者たちは、変性意識を体験し、そこで得た智恵を共同体に持ち帰るのではない。
そうではなく、彼らは、さらにさらに垂直方向へ昇っていく。
そしてついには、主体と客体という認識構造自体が超克され、不二の意識だけが輝きわたる地平へ出るのである。
・ 超越性宗教のパラドックス
超越性宗教の「死と再生」体験は、どのようにして起こるのか。徹底した超越とはいかなるものなのか。
部族シャーマニズムにおける脱魂の旅は、日常性と変性意識の往復運動であった。シャーマンは変性意識状態で得た智恵を日常性の中に持ち帰り、部族共同体に捧げた。
だが、超越性宗教における最終的な解放は、そのような往復運動の範疇に収まるものではない。
それは変性意識で得た智恵を共同体の中で生かすといったものではない。
超越性宗教はそのような霊的営みを「成就=解放」であると考えるものではない。
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