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「またな」という嘘

今まで、すべての死別の際、最後に交わした言葉は、「またな」だった。

初めて肉親を喪ったのは祖母。三年間の米国赴任を前に見舞いに来た僕に、人工呼吸器で話せない祖母は、指を1本立てて、何か必死で聞いていた。
意味がわからず、僕はその指を握りしめ、「大丈夫」と言っていた。
祖母は、「ああ、伝わらない」と言うように、自分の額を軽く叩いた。
僕は三年後にも祖母は生きていてまた会えるという以外の考えをすべて頭から追い出して「またな」と言った。

飛行機が滑走路を走り離陸した瞬間、僕は忽然と気づいた。
祖母はあのとき、出発までにもう一度来るのか、今日が最後か、人差し指で尋ねていたのだ。
赤ん坊の時から、共働きの母に代わって、我が子のように育てた孫と、今日が最期か、確かめていたのだ。
迂闊にも僕は「大丈夫。またな」と言っただけだったのだ。

二ヶ月後、米国に訃報が届いた。
それが、はじまりだった。
父も母も、僕は最期に「またな」と嘘をついて見送った。

実は「また」は、生きている間も、ただの一度も存在しない。
幼い我が子が部屋に入って来たときに、また明日遊んでやる、今は忙しいと、はねつけた時もそうだ。
すべては一回限りだ。
それを日本語で無常という。

追伸

すべては流れ、展開し、一回かぎりです。
死はそれをくっきりさせているだけです。
実は、「またな」と言ったとき、目と目が合ったのも、一回限りの貴重な瞬間だから、
僕はこれを悲嘆だけのために書いたのではない。
すべての瞬間を抱きしめたまま、また次に流れていく。
そのすべてが耀きでもあるのです。



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長澤靖浩
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