アッパーワールドでジョンレノンに会う(4)
2018年9月16日のシャーマニズムワークショップの報告(4)
さて、ティーチャーには何か聞きたいことを質問することになっている。ただし、その答には従わないといけないという。逆にいうと、従えない答が返ってきそうな質問は避けた方がいいというガイダンスがジャーニーの前にあった。かといってどうせわかっている期待どおりの答が戻ってくるようなことを聞いても仕方がないという。
(このあたりにこのネオシャーマニズムが、微妙にソフトすぎる面があるような気がしないでもなかった。)
僕は濱田さんに「僕は変性意識状態がとても好きで、この物質的な現実社会を愛せない。愛するためにはどうしたらいいか聞きたいが、おそらく何らかの大きな抵抗があるので愛せないのだと思う。しかし、質問したらその抵抗を棄てなさいという答がかえってくるような気がする。しかし、それは聞けない相談だからこそ、この世を愛せないのだと思う。だったら、ティーチャーの言うことを聞けないと思う。困った」と言った。
濱田さんは「立ち入ったことを聞くようですが、あびさんは本当にこの世を愛したいんですか」と聞いた。僕は「本音では愛したくない。」と言った。そして「あ、じゃあ、この世を愛したくないんですけど、そんな僕はどうしたらいいですかと聞けばいいですか」と質問を修正してみた。「そうですね」と濱田さんは言った。
僕は「よかった」と言った。皆が笑った。
しかし、後から思うに、そのようなメソッドをとると、自分にとってのエッジへの直面が避けられる。それが「ソフトすぎる面」とさっき言った件だ。僕は助かったのだが、エッジへの直面、機の深信とか、否定的契機、自我が粉々になって光が満ち渡る、その自我が粉々になる契機の欠如という欠陥をこのメソッドは持っていないだろうか。まあ、それは今後の考察課題として、今日のワークショップの件の続きに戻ろう。
言い忘れたが僕はジョン・レノンの前に自分にも会った。キリストとしばらくいてから、はっきり答えないキリストをティーチャーではないと見限ってすぐに自分に会った。僕は自分にも「あなたは私のティーチャーですか」と聞いた。あびはあびに「違う」と即座に答えた。それからジョン・レノンに出会い、彼が「そうやで」と言ったのである。
このことには何か意味がある気がするので書いておいたほうがいいだろう。
さて、僕は、あなたのティチャーだと肯定したジョン・レノンに尋ねた。
「僕はこの世を愛するつもりはなく、空なる世界やパワフルなエネルギーに満ちた世界が好きだんだけど、そんな僕はどうしていったらいい?」と聞いた。ジョンは「その3つは別々のことじゃない。すべてでひとつだ。たぶん、空なる世界に入り込めば入りこむほど、エネルギーに満ちた世界に入り込めば入り込むほど、この世に対しても受け入れられるようになる。だから今はちょうどこの世を愛している分だけこの世を愛していればいい。空を愛してる分だけ空を愛していればいい。エネルギーを愛している分だけエネルギーを愛していればいい。絡まり合って、進行していく」と言った。
『魂の螺旋ダンス』ではないか。僕は安心し、やっていけるような気がした。臨死体験の直後にこの世への愛がもっとも深まったことも得心がいった。空なる世界を深く知ったからこそ、生きている間にしかできないことをしたいという思いが強くなっていたのだ。だが、それが息切れして、もっと空へ浸りたかったり、もっとエネルギーと接触したくなったりしていたのだ。
ちなみに(ネオ)シャーマニズムは、仏教の空ということにはあまり関係のない世界だと思う。アンダーワールドではパワーアニマルからパワーをもらい、アッパーワールドではティチャーから智慧をもらって、この世に持ち帰る。その往復運動があり、戻ってくるのは、「現実」の世界だ。その往復運動の全体を解脱してしまい、二度と戻らないという仏教とは根本的に異なる。
今はまだ生きている僕には完全な解脱は無理だ。が、それは臨死体験で「殆ど」知った。たぶん、この世の殆どの人より知ったんではないかと勝手に思う。どちらかというと、僕がシャーマニズムに求めるのは、パワーの源の方だと思う。尻切れトンボに思えるかもしれないが、今はそれだけしか言えない。
なお、他の人のジャーニーのシェアはそれぞれ大変興味深かった。しかし、僕の疑問は「アッパーワールドで聞いた答には従わなければならない。ゆえに従えないような答が返ってくるようなことは聞かないこと」という枠組だ。その枠組だと大きくくくると、あるがままでいいという答しかないように思う。現にティーチャーの答のシェアはそれぞれの形での「あるがままでいい」という答のシェアに聞こえた。自己受容は大切なことだが、エッジはどこへ行った??? それともこれは単なるスタートなのか。あるいは、エッジを突き抜けない自己受容でいいのか??? 自己受容を徹底するということはもうひとつのエッジを突き抜ける道なのか? この疑問符は残したままにしておきたい。 (一応 了)
追記。
ジョンはこうも言った。
この世とそこの人々を愛したり、理解しないといけないというのは君にとって一種の強迫観念だ。それと最近まで長い間、小説を書きたいと思っていたことも関連した強迫観念だ。ふたつは連動している。君は本当は僕と同じで詩人だ。小説は本当に書きたくなるまで書かなくていい。詩と発句で十分だ。君は変性意識を表現したいだけだから、それでいいんだ。本当にそれに満足したら、もしかすると小説が書きたくなるかもしれない。この世とそこの人々を愛し、理解し、表現するようになるかもしれない。その時は書いたらいい。それまでは詩と発句でいい。あるいは変性意識のめくるめく展開を表現しているファンタジーでいい。無理しなくていい。ところで今度一緒に演奏しよう
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