スピリチュアルは天皇制を超えるか
ニューエイジ思想は天皇制を超えるか 1992年2月 改題
長澤靖浩(アビシェーカ)
今日はインドのグル、 オショー・ラジニーシの瞑想センターのひとつである、マイ トリー瞑想センターでお話しできるということで、 非常に貴重な機会であるというふうに感じています。
これまで瞑想センターで、 オショーの言葉を伝えるためにではなく、自分たち自身の思いや考えを伝えるために、どれだけ話し合いがもたれたことがあるでしょうか。しかも、オショーの存在や思想そのものへの疑問も含むような話がどれだけ交わされてきたでしょうか。
カリフォルニア総合研究所のジョアンナ・メイシーは、湾岸戦争に関するコメントの中で、 「問い合うことが大切だ」 「問い合うことは果てしないパワーを持つ」 と語っています。 それについてどう思うのか、どんな風に感じるのか、身近な仲間と話し合うことが大切だというのです。あの戦争の時、圧倒的な情報量の中で孤立しそうになっていたひとりひとりの、戦争への疑問、痛み、悲しみは、 身近な人と話し合うことからつながっていくことに唯一の活路を見いだしていったと言えるかもしれません。もしもそれさえもはばかれるような状況が生まれたとしたら、それはもう戦前、戦中の日本と同じで絶望的な状況です。ですが、もしも僕達が問い合うことを放棄したり、先延ばししたりばかりしていると、自らそういった絶望的な状況を呼び込んでしまうかもしれないのです。
宗教にとって不断に必要とされるものは、自己批判です。自己批判のない教義の絶対化に陥った時に、その宗教は死んでしまいます。 宗教というものはこの自己批判というのが苦手です。すぐに教義を絶対化してしまう。教義というよりも、教祖を絶対化してしまうと言った方がいいかもしれない。それから、すぐに権力と癒着してしまう。
僕自身、オショー・ラジニーシの宗教だけは、それを免れるかもしれないという期待を抱いた時期もありました。なぜなら、オショ ーは、信仰することよりも、探求することの中にこそ、真の宗教性があるということを口を酸っぱくして言う人だったからです。それにもかかわらず、 オショーの弟子のサンニヤシンの多くは、オショ ーへの信仰に陥り、絶対化に陥った。そして無残な姿をさらしました。これについては後で詳しく述べます。
しかし、それでも、サンニヤシンの中には、オショーへの批判の気持ちから、オショーを離れた人もいるし、批判の手紙をオショ ーに送った人もいる。
日本では、プラブッダやデヴァムが展開した批判が非常に意味のあるものです。そういったところに僕は光を見ます。この宗教は自己批判能力を失っていないということに希望を感じます。別にこの宗教という必要すらないのですが。とにかく、 探求が続けられ、覚醒が更新され続けることに希望を見いだします。
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