たったひとりの卒業式

               
 25年ぐらい前、僕がK高校の教師をしていたときのことだ。Mとそのお母さんが三者懇談に来た。その綺麗なお母さんは懇談の席につくなり、「もうこの子は、こうでこうでこうで、家でもいつも叱っているんです」と、学校の先生が懇談で言いそうな(?)ことを、言われる前に自分で語りはじめた。ものすごく防衛している。
 僕は「Mちゃん。ブルーハーツ好きなんですよね」と言った。お母さんはきょとんとした顔をした。「いつもブルーハーツの話で盛り上がるんです。なあ、M」「うん」「今度、ライヴも一緒に行こうかと行っているんです。いつもいろいろな生徒とブルーハーツのライヴ行ってるから。今度、一緒に行かへんか、っていうてるんです。なあ,M」「うん。お母さん、この先生、ちょっと変わってるねん」
 お母さんの表情が確実に柔らかく変わっていく。そして、そのうち、ぽつぽつとお父さんが家でこの子を殴るという話をしはじめた。「私にはどうしようもなくて」と。そうなのか。そうならば、それを聴くためにこの三者懇談はあったんだ。Mちゃんの学校での行状の問題点をお母さんに報告するためじゃないよ。
 やがて、Mは家出した。欠点だらけで、補習を受けてレポートを出さないと卒業できないのに、その時期に家出してしまった。僕は留年決定の職員会議で「待った」をかけた。「Mは家で虐待を受けているんです。僕が捜しだします。3月ぎりぎりまで補習の続きを待ってください。補習を受けさせます。卒業させましょう」
 Mを探しに街に出た。副担のA先生が同行してくれた。Mの元彼に電話で聞き出したお店の名前を頼りにやっと同名の店を探し出す。ここでバイトしていると聞いた。スナックだ。僕はA先生と一緒にお店に入り、先生だとは言わず客を装い「今日、Mちゃん。いるかな?」と聴く。でもどうやらそれらしき子はバイトしていないようだ。
 「そうか、残念やな。また来るわー」と言って、店を出て、元彼にまた電話する。「○○というスナックにいないよ。もう手がかりはない?」「スナックじゃありませんよ、先生。風俗です。手と口で抜くお店です」「えええ!」


 電話を切って、僕は副担任のA先生にいう。「A先生。いまから取り戻しに行きましょう」「そやけど、先生。そんなとこ、普通の経営ちゃうで。僕らだけで行ったら、危ない。警察と一緒の方がいいで」「なるほど。ほんならまず、おるかどうか、調べよ」
 僕は同名の風俗店の電話番号を番号案内で調べた。「ええっと今日はMちゃん、いますか」「ああ、すみません。今日はおやすみですね。ほかにもいい子いっぱいいますよ。いかがですか」「そうか。Mちゃんがよかったなあ。まあ、今度また行くわ」電話を切る。
  僕はまた元彼に電話する。「休みやわ」「ほんなら寮やな」「寮?」「お店の寮です」「住所知ってるのん?」元彼はお店の寮の住所を教えてくれた。僕とA先生は夜の街を抜け、そこにたどり着く。
 インターホンを押すが出てこない。A先生は電気メーターをじーっと見ている。「居留守じゃないです。この動きは冷蔵庫しか動いていない動きです」(こういうことに長けていないと、学校の先生はできないのです。)「じゃあ、今日は諦めるしかないな」
 だが、僕は次にMが学校に現れた日、Mをつかまえた。「補習受けへんと卒業できひんで」「わかってる」「ほんなら、今日から先生とこに帰ろ。そこから毎日学校に通って、補習受けよ」「え、ええのん?」
 その日からMはうちで暮らす。家には、妻と一歳に満たないこどもがいた。Mは楽しそうに赤ちゃんをあやしている。普通の少女だ。妻に事情を説明すると「わかった。卒業決まるまでうちで預かろ」と言った。
 数日間は一緒に学校へ行き、補習を受けた。だが、ある日、先に学校を出てそのまま帰って来なかった。家に電話したが、家には帰ってないとお母さんがいう。僕は近くの踏切と電車の音を聴くたび、あれに乗っているかもしれない。その電車が駅に着いて10分後、もうすぐ帰ってくるかもしれない。と考える。だけど、ついに終電の時間が来て、電車の音も途絶えた。
 次の日、Mは学校に来た。「なにしてるねん。ちゃんとうちから通って補習受けろや」「そやかて、店長いい人やねん」「いい人、いうても、それで儲けてるんやないか」「バイト料入ったよ。いつも先生とこでご飯食べさせてもらってるから、今日はうちが、このお金で買い物してつくる」「そのために行ったんか」「うん」「もう行かんでもええ。卒業決まるまでうちから通うと約束せえ」「約束する」
 その日はMのつくったご飯を食べる。
 卒業式には間に合わなかった。卒業式には出られなかった。だが、3月中に追加単位が認められ、Mの卒業証書が出た。だが、Mはまた行方不明になり、僕の預かった卒業証書も取りにこない。夜の街にもどったのか。
  約一年後、突然、Mのお母さんから電話がかかってきた。「卒業証書。Mと一緒に取りにいってもよろしいですか?」親子がうちに現れた。僕は卒業証書を読み上げて渡した。Mはそれを黒い筒に収めた。
 「いま、お母さんのスナックで一緒に働いてるねん」Mは言っていた。「この子が高校卒業できたんは本当に先生のおかげです」とお母さんは言った。僕はしたくないことはせず、したいことだけして生きる人だ。だからあのときも、したいことだけしたのだ。
 親子は一緒に何度も振り返って礼をしながら帰っていった。(おわり)

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