形骸化が嫌い
形骸化・・・本来の意味を失い、形だけが残ること。
日々穏やかに過ごすことを是して生活しておりますが、そんな自分にも苦手なもの、というより若干嫌いなものがあります。
それは「形骸化されたもの」
組織や規則から様式や価値、行事や儀式などに至るまで、自分なりに本質や目的を感じにくいものが苦手です。
最近、ブラック校則が注目されておりますが、ブラック校則もずいぶん前から形骸化されて久しいんじゃないかと思います。
文部科学省によると、校則とは「児童生徒が健全な学校生活を営み、より良く成長・発達していくため、各学校の責任と判断の下にそれぞれ定められる一定の決まり」とされています。
「よりよく成長・発達」していくために、「一定の決まり」があることはとても大切なことだと思います。
ですが、ブラック校則問題の本質は、その校則が本当に児童生徒の「よりよく成長・発達」にきちんと寄与しているかどうか、というところが長い年月をかけてあいまいになっていることにある気がします。
そういった意味では校則の一部は、すでに形骸化していると言ってもおかしくないかと。
現に学生さんたちから声が上がり始めたことは、能動的な人間を育てるという教育方針を掲げる日本にとって、とてもすばらしいことだと思っています。
でも、確かに長らく不変だったものって、変えたり改革したりすることに対して、とてもたくさんのエネルギーを使います。
大きいもので言えば憲法だったり、小さくはPTAや町内会の規約だったり、社内のルーティンだったり。
心の中でこんなの早く変えちゃえばいいのに、って多くの人が思っていても、じゃあ変えましょうよって言える人はホントにごくわずかです。
こういったところに形骸化の波がどんどん浸食していくのでしょう。
さて、組織や規則、行事などの形骸化はなんとなくわかりやすいですが、よく考えればこれも形骸化してるんじゃない?というものがあります。
それは
神社です。
見る人が見れば、神社なんて形骸化の最たるもんじゃないか、とか言われそうで、考え方によってはある意味正しいのかもしれません。
残念ながら、過疎地域には、本来の意味を失い形だけが残る「神社」がたくさんあります。
神社はもともと、神様に雨を降らせてもらったり、または水害を治めてもらったり、農作物が育つよういいお天気が続くようお願いしたり、戦に勝つためや敵が襲ってこないためにその地に鎮座して守ってもらったりと、人間が神様にお願いしてそこにとどまってもらったことが始まりだったりします。
でもやがて人間は、天気の仕組みを知り、農業改革を行い、国は一つになり、平和を享受し始めたので、神社が持つ本来の意味は失ってしまったと言っても過言ではありません。
なので、やっぱり神社は形骸化してるじゃん、って言われそうですが、これが案外そうでもないのです。
神社の当初の目的こそ変わりましたが、その目的が変わってしまったのはもうずいぶん昔の話で、いつの間にか、人々は神社に違う目的を見出し始めました。
水神さまは、水源・水質の護持や美容のご利益だったり。
戦の神の八幡さまや鹿島さまは、戦争ではなく就活や受験、スポーツなどの必勝祈願のご利益だったり。
結果、その時代時代で、人間側が神社の目的を良いよう良いように解釈してきました。そしてこういった解釈の変化は今後もゆるやかに続いていくのだと思います。
著しい科学の進歩や宇宙の仕組みですら徐々にわかってきた現代でも、日本人は、心のどこかでやはり真理はわからない、と本能的に理解しているのかもしれません。
ただ、一方で昔も今も変わらないものがあります。
天気です。
天気の仕組みが判明し、予測もできていろいろなことに備えることが出来るようになりました。
しかし、天気を支配することは現時点では不可能です。現に自然災害が世界中のあちらこちらで発生しています。
この点に関して言えば、例えばお稲荷さまなどは今も昔も五穀豊穣のお願いを聞いてくださる神様として、昔からの信仰にあまり変化はないのかもしれません。
このように、神社には形骸化したものとそうでないもの。形骸化したけれど、目的が変わってまた新しい信仰ができたものなどがあり、一括りに形骸化した最たるものだとは言い切れないと思うのです。
故に私は神社は嫌いではないし、苦手でもない。
世の中にある形骸化されたものが、少しでもいい方向に向かうといいなと日々思っています。
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