優しさの気配 お礼にかえて
僕が「noteを一冊の雑誌」だと捉えているという前提でお話しさせてください。
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例えば102456頁を担当している書き手から2345602頁を担当している書き手へファンレターが贈られる事があります。
noteという巨大な雑誌の中で起きる、個人的に不思議だと思っている現象の一つです。
不思議だと思いながら、誰かから誰かへ贈られたファンレターを読むのはとても心地良いものですし、これからも読みたいジャンルのnoteです。
でもそれは、自分のnoteに起こる現象だとは思っていませんでした。
最初のサプライズはしめじさんでした。
noteってこんな事が起こるんだ、と驚いたものでした。
発掘して頂いた感が強かったのですが、改めて読ませて貰うと、
「これは簡潔なファンレターなのでは?」と思えてきました。
しめじさんにはまた違う機会にお礼を言いたいです。
幾つかSNSをやってきている僕は、noteでの「スキやコメント」を他のSNSよりも信用していて、それだけで、読んで貰えた証であり、ファンレターだと勝手に思っていて、嬉しいなぁありがたいなぁと感じています。
だから僕も自然とファンレターを送ったりお返ししたくなってしまい、恐る恐るスキやコメントをさせて貰っているのが現状です。
ところが先日、タイトルに「ファンレター」と謳われているファンレターを頂いてしまいました。
これはもう僕にとっては事件です。
水野うたさんは、この「真夜中のファンレター」の中で、僕が日常的に書いているラブレターの中の一篇を紹介してくれただけでなく、そのラブレターを元に自作の短歌を詠んでくれました。
それはまるで優れたカメラマンが撮ったポートレートみたいに僕のラブレターが見違えて見える内容でした。
とても嬉しい事でした。
ファンレターを貰った事をただただ素直に喜びました。
そして心を尽くしてお礼をお伝えしようと思いました。
しかし、僕はこうも思ってしまいました。
「うたさんはなぜ僕の記事をこのように好意的に読んでくれ、ファンレターまで書いてくれるのだろうか」
一度そう思うと気になって仕方がありません。
だから僕は、水野うたさんが公開されている記事を、知り合う以前の、未読の記事を全て読んでいきました。そうする必要が感じられたからです。
読めば読むほど、僕とは全く違う生い立ちで、違うものを背負い、経験をしている方だと感じました。思考の仕方も違いました。別の人間なのだから当たり前と言えば当たり前なのですが。
人生の再生の物語。大切な人との出会いや別れ。ピアノ。note公式のコンテストで受賞した高校野球の記事。戦争の話。命の話。
思わず笑ってしまう話。そして写真の話。参加したnote内での企画の話。詩や小説などなど。
そのどれもが心と言葉が尽くされているnoteです。
しかし、どれほど言葉を尽くしたとしても心の中を全て語り尽せはしません。僕はそう思います。
おそらくうたさんもそう思っているのではないかと想像します。
でも。そうだとしても、「思い」を、「気持ち」を、「心」を、余す事なく言葉や形にしたい、してみたいと思い、もがく。
それが表現者の原動力の一つではないでしょうか。
うたさんがnoteの中で度々口にする「プロセス」という言葉は、その方法を手に入れたいという必死な願いに聞こえます。
そんなうたさんのnoteの中で、「僕がファンレターを貰った理由」みたいな物のありか、ヒントが感じられるのは下に紹介するnoteです。
優しさの気配を感じます。
僕はラブレターを書くときに、「優しさ」ってなんだろうか、自分は優しい人間なのだろうか、人に優しく出来ているのだろうか、と考えながら一文字一文字打っています。そういう変な癖があります。
僕の書く文章に「優しさ」があるかどうかは自分自身ではわかりません。
でも、自分を思い切り甘やかして言うなら、「優しさの気配」くらいはあって欲しいと思います。
もしかしたら今回うたさんに取り上げて頂いたラブレターに、それを感じて貰えたのかもしれないと思っています。
短歌という手法は、言葉を尽くしても語る事が出来ない、その気配に焦点を合わせた表現なのではと思えてなりません。
まるで、絞りやシャッタースピードで露出調節して光の量を決め、焦点距離を見定めて撮影された一葉の写真のようです。
うたさん、勿体無い言葉の数々、素敵なファンレターをありがとうございました。
そしてnoteの各頁を彩っている皆さんへ
いつも僕のnoteに時間を頂戴している皆さんへ
お礼にかえて。
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