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僕は文章がかけない1

柄谷行人の「夢の世界」という文章を読んでいてこんな一文を見つけた。

たとえば、「明け方、私は消防自動車のサイレンの音で眼をさました」という文章がある。これはむしろ「私は眼をさました、そして消防自動車のサイレンの音を聞いた、明け方だった」と書いた方がよりリアルであろう。なぜなら、前の文では一つの経験が実はありもしない時間的な順序のなかで整理されてしまっているからだ。

『意味という病』柄谷行人

さらに上記に関してW・H・オーデンを引用する。

ギリシャ語とラテン語は、事実を系統だてるための豊富な工夫や、接続詞、類別された時制のために、詩や格式ばった演説には素晴らしいが、この美点そのものが、つぎつぎに続く出来事や、気楽な会話を報告する段になると、かえって欠点となるのである。なぜなら、これらの美点は作者をいざなって、その素材を過度に系統立てようという気にならせるからである。

僕は本を読んだり、映画を観たりなどしてそれに強い感染を受けると、何かしらアウトプットしたくなる。そう思い文章を書こうと思い立つが、何かしら不自由さを感じてしまい、文章が途絶してしまった経験が何度もある。なぜ僕は文章がかけないのか?ずっと考えていたが、上記の文章を読んでなにか腑に落ちた部分があった。因果律に落とし込まなくては文章化できないからだ。とくに因果律に関係の深い文法は接続詞だと思う。僕は特に接続詞の使い方に悩んでしまう。「この事とこの事がうまくつながらない」そう思って文章がかけなかったことが何度もある。
文章を書くという行為は頭の中で考えていることを一度因果律に合うよう内容を変換する行為である。僕はそれが苦手である。でも書きたいという欲もある。一回バージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』みたいに意識の流れっぽい文章で書いたほうが書きやすいかも知れない。


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