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ひと筆に籠った熱量,理想的な展示空間-[没後30年 木下佳通代]展(-8/18)

 8月某日。京都から移動し、大坂滞在。

 大阪中之島美術館。



ヤノベケンジ作品がお出迎え

 猛暑のなか、ヤノベケンジ「SHIP’S CAT (Muse)」が迎えてくれる。

 この猫さんは、全国各地に。銀座シックスでも出逢った。


 館内には、同じくヤノベケンジ作品「ジャイアント・トらやん」。


圧巻の、「没後30年 木下佳通代」展

 お盆期間。前日の村上隆展では、人混みを鑑賞することとなったが、

 ここは、静けさに満ちている。


 はじめに書いておくと、圧巻の展覧会だった。特に中盤から終盤。55歳で亡くなった女性アーティストの回顧展。


絵画と「境界の思考」

 展示は時系列で、3つの時期に分けて作家の軌跡とその作品を観ることができる。

第1章 1960 – 1971

1958年に京都市立美術大学(現 京都市立芸術大学)に入学、黒田重太郎・須田国太郎に師事。河口龍夫や奥田善巳に出会い、グループ〈位〉とともに活動した時代までの初期作品を紹介します。

同上

 初期の油彩のなかで、特にこれら2作品に惹かれた。人物を描いていても特に人物を強調しているように見えず、背景にあるものたちを含めてすべてが同じ比重で描かれているように感じられるところが特に興味深かった。

 つぎに、大学時代のノートとともに展示されていたのは、

 立体の断面と背景の関係性に着目した「内側と外柄」のシリーズ。



「存在」「知覚」「認識」

第2章 1972 – 1981

初期より積極的な活動を展開した木下はギャラリー16(京都)、村松画廊(東京)、トアロード画廊(神戸)を中心にほぼ毎年個展を開催します。写真のコラージュや構成、フェルトペンによるドローイングなどが多く発表され、作家として評価された最初の時期。このたび発掘されたビデオ作品も展示します。

同上

 この年代の作品では、かなりの点数があったなかで特に印象に残ったのは、写真を用いた作品群だった。



「塗り」から「線のストローク」へ

第3章 1982 – 1994

1982年に抽象絵画の制作へ大きく転向。力強いストロークの幅広い筆致や、描いた部分を拭き取るなど、92年までの間に作風は度々変化します。同系統の色の加減算による絵画は、時間が重層するような奥行きを生み出しました。
このたびの調査で明らかになった最大規模の作品も、修復後、本展で初公開となります。

同上

 晩年にあたる10年間の作品。

 ここでは、強い線、力強いストロークに目が離せなくなった。


大型作品の前に佇む

 この企画展すべてに言えることだが、天井が高くゆったりととられたスペースが、抽象的な作品の「余白」となり、より作品に没入することができた。

 これら大型作品は、まずその前に立ち、近寄って細部を観てはまた遠のいて全体を鑑賞する、を繰り返した。作品と対話させてもらう、贅沢な時間を得た。

 そして、最後の展示室へ。


「描きたいのに時間がない」 -最後の展示室

描きたい、描きたいのに時間がない。

1990年、がんの告知を受けた木下。治療法を求めてロサンゼルスへ渡り、現地でも制作を続けました。迫りくる死に対峙しながら、カンヴァスから緊張感をも感じさせる作品など作風も変化します。

94年に55歳で亡くなるまで、生涯で1200点以上、82年から絶筆までで絵画だけでも700点以上の作品を制作。絵画作品のシリーズを中心に94年の絶筆までを通して紹介します。

同上

 病を押しながら描かれた、晩年の作品。

 広い広い展示室には、ちょうどいい場所に椅子が配されており、キャンバスに描かれたさまざまな「線」と対峙した。

 近寄ると、実は画面は立体のようにも見えて、じっと見つめていればいつしか、作品のなかに入り込んでしまう。


 ロビーのショップでは、赤を基調とした「'93-CA792」など、印象的なグッズも販売されていた。

 作家の想いと、鑑賞した人たちの気持ちが浮遊する。白い巨大な空間は、そのすべてをひとつにして、静かに循環させている。

 人生半ばで亡くなったアーティストが、全活動期間を通して放ってきたエネルギーを、それにふさわしい展示環境で、存分に味わった。

 この場に来てよかった、と。

木下佳通代(きのした・かずよ)

1939年 神戸市長田区生まれ。中学・高校は親和学園(神戸市)に通う。
1958年 京都市立美術大学(現 京都市立芸術大学)に入学し黒田重太郎や須田国太郎に師事。
1962年 大学卒業後、神戸市立丸山中学校、親和学園などで美術教師を務める。
1965年ごろ 河口龍夫、奥田善巳らのグループ〈位〉と共に活動する。
70年代前半 ギャラリー16(京都)、村松画廊(東京)で定期的に個展を開催した。
1977年 第13回現代日本美術展兵庫県立近代美術館賞を受賞。
1981年 彫刻家・植松奎二の紹介でハイデルベルク・クンストフェライン(ドイツ)で個展を開催。
1982年 第11回ブルーメール賞 美術部門を受賞。突如としてこれまでの作風を捨て、抽象絵画の制作を開始。
1990年 がんの宣告を受けて闘病生活に入る。治療法を求めてロサンゼルスを度々訪問。現地でも制作を行った。
1994年 神戸にて55歳で没する。



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