ふくしま浜街道トレイル冒険録9・終:遂に全線踏破(鹿島→相馬→新地)
半年ほどふくしま浜街道トレイルを歩くことを中断していた。最後のセクションは私の地元である相馬市の周辺、いつでも歩きに行けるかと思うとなかなか行動を起こせず、気が付くと半年経ってしまっていたが、年が変わる前にと、腰を上げた。
さあ、旅のゴールに向けて歩みを進めよう。
Day10:鹿島駅→相馬駅
2024年11月30日(土)
JR鹿島駅で常磐線の列車を降りて旧鹿島町の中心市街地を歩き、まず「鹿島御子神社」に参拝する。この神社も延喜式式内社で、平安時代からこの地に祀られていた。
ところで、鹿島と聞くと鹿島アントラーズや鹿島神宮で知られる茨城県鹿嶋市を連想する人が多いだろう。鹿島のほかにも、このあたりには茨城県と共通する地名がいくつかある。たとえば旧相馬郡の南部(南相馬市及び飯館村)は明治時代まで行方郡(なめかたぐん)と呼ばれていたし、以前歩いた花園ドライブインの周辺は大甕(おおみか)というが、「行方」も「大甕」も、茨城県にも存在する地名だ。古来から海伝いに茨城県と浜通りに交流があったことで共通する地名が残ったのかもしれない。
鹿島の町を過ぎてひと山超えると、広い水田地帯に出る。地図には「八沢浦干拓」の文字が記されている。ここには明治時代までは八沢浦という海とつながった汽水の潟湖(ラグーン)があった。相馬市周辺の沿岸部には八沢浦のほかにも松川浦・山信田浦・新沼浦といった潟湖があったが、明治から昭和にかけて松川浦以外の湖は全て埋め立てられて水田となった。元々が海と繋がっていたので標高はほぼ0mかそれ以下で、東日本大震災直後は一帯が水没してしまい、埋め立てられたはずの八沢浦が復活したようになっていた。干拓地の真ん中にある水路が、相馬市と南相馬市(旧鹿島町)の境界であるようだ。八沢浦が埋め立てられる前は、湖の真ん中に相馬と鹿島の境が引かれていたのだろう。
八沢浦の北側の地名は獺庭(おそにわ)という。「獺」という漢字はカワウソを意味するが、二ホンカワウソが絶滅した現代では、この漢字を見かけるのは有名な日本酒の銘柄「獺祭」くらいになった。カワウソは水辺に住み魚などを食べる食性を持つが、カワウソには捕まえた魚を河原に並べる習性があり、その様子が祭りを開いているように見えることからこれを「獺祭」と呼び、転じてたくさんの書物を床に開いて熱心に勉強する様のことも獺祭と呼ぶのだそうだ。この獺庭の集落でも、二ホンカワウソが絶滅する前はカワウソが魚を並べる姿を見ることができたのだろうか。
磯部という集落を歩いていく。磯部地区は、相馬市で最も東日本大震災の被害が大きかった地区だ。磯部小学校・磯部中学校がある小高い丘陵には今も集落が残るが、北側の低地、松川浦の南端にある磯部漁港に至るまでのエリアでは集落が壊滅し、多くの人が亡くなった。磯部集落の跡は、今は一帯がメガソーラーとなってしまっていて、淋しい光景が広がっている。
集落跡のソーラーパネルを遠目に眺めながら、大洲海岸の堤防の上を歩いていく。大洲海岸の東側は太平洋、西側は干拓されずに残った潟湖、松川浦が広がっていて2つの海に挟まれた細い砂州の上に道路が通っている。景観のよい道路の上には観光客の車が行き交っている。
大洲海岸は鵜ノ尾岬という岬で終わる。松川浦は北側、松川浦大橋が架橋されている地点で海と繋がっているが、明治時代まで松川浦の出口は鵜ノ尾岬の南側の地点にあった。この場所が堆積した砂により閉塞してしまったため、船が通れるようにするために現在海と繋がっている場所を掘削して新たな出口とした。そのため鵜ノ尾岬南側の地点は砂州が最も細くなっていて、東日本大震災の際は津波がこの地点を破壊して松川浦と海がつながり、大洲海岸の道路は通れなくなった。youtubeには、大洲海岸の堤防を津波が乗り越える恐ろしい映像が残っている。
鵜ノ尾埼灯台から太平洋を見渡すと、みちのく潮風トレイルで歩いた牡鹿半島と思われる陸地が蜃気楼のように海の上に浮かび上がっていた。
松川浦大橋を渡って少し歩いて、海水浴場のそばに建つ「相馬市伝承鎮魂祈念館」に立ち寄ったが、この日は臨時休館日だった。祈念館の傍らに建つ慰霊碑には、相馬市において東日本大震災で亡くなった全ての人の名前が刻まれており、その中には私の見知った人の名前もいくつかある。
松川浦の静かな水面を眺めながらほとりを歩くと、みちのく潮風トレイルの南側の起点である「松川浦環境公園」がある。エンドポイントを示すモニュメントの横には以前は無かったハイカーカウンターが建っていたのでカウンターを一回だけ押す。
松川浦環境公園の横には湿地があり、地図を見ると「野崎湿地」という文字が記されている。この野崎湿地は、震災前は絶滅危惧種に指定されているトンボ「ヒヌマイトトンボ」の生息地として知られていたが、東日本大震災の津波で環境が大きく変化した影響で、最近はトンボの生息は確認できなくなったらしい。
最近、野崎湿地はニュースの舞台になった。湿地の所有権を買い取った開発業者が、首都圏の工事現場で排出された残土を捨てる埋め立て場所として利用しようとしたことが明らかになり、地元住民が反発したのだ。結局、市が埋め立てを規制する条例を制定したことでこの事件は収束したようだ。
ここから先、ふくしま浜街道トレイルとみちのく潮風トレイルのルートはしばらく重複して進んでいく。私にとっては3年前に歩いた道だ。宇多川の河川堤防を進み、JR相馬駅で一日を終える。
この日は、約28kmを7時間ほどで歩いた。
Day11:相馬駅→磯山展望緑地北ターミナス
2024年12月1日(日)
いよいよ最後のセクションだが、今日の行程はほとんどがみちのく潮風トレイルと重複しているので、既に歩いたことのある区間がほとんどとなる。
相馬市の中心市街地は中村という。旧中村町が市に昇格する際、自治体名が高知県中村市と重複することを避けるため、お殿様の名字を取って自治体の名前を相馬市とした。相馬中村の街は、相馬藩の城下町。私にとっては馴染みの地元の街並みだ…と言いたいところだが、私が子供の頃とはずいぶん街並みの雰囲気が変わってしまっている。東日本大震災の影響だけではない。中村の街は海から離れていて津波は到達しなかったし、相馬市には原発事故による避難指示が出されず浪江や双葉のような避難による影響もなかったので、東日本大震災の影響はそこまで大きくはなかった。しかし、相馬市では、2021年と2022年の2回、東日本大震災の余震とみられる地震で震度6強の揺れを観測し、大きな被害が出た。東日本大震災の相馬市の震度は6弱だったから、東日本大震災の時よりも強い揺れに2回襲われたことになる。この2回の地震の後、中村の市街地では多くの建物が取り壊され、私の見知った風景とはすっかり様変わりしてしまった。
相馬藩の居城、相馬中村城の城跡に建つ相馬中村神社に参拝した後、神社を後にして進んでいく。みちのく潮風トレイルを歩いたハイカーのレポを読むと、相馬中村神社から蓮池に抜けるトレイルのルートがわかりづらいと書いている人が多いが、この道は地元の人間にとってはいつも通っていた抜け道で、抜け道の先には私の通っていた中学校があるので、私は迷うことなく進んでいける。
市街地を抜けてしばらく進むと、みさご沢池という池がある。白鳥の飛来地だが、この日は白鳥は数えるほどしか見られなかった。このみさご沢という池は農業用に整備された溜池だ。相馬地方は長い川が少なく、農業の為の水利に困る土地が多かったので、みさご沢池のような農業用溜池が多く整備されている。
相馬市と新地町の境にある白幡のいちょうは見ごろに差し掛かった頃合い。真っ黄色まではまだ行っていないものの、黄色いイチョウの葉とこれから登る鹿狼山のコントラストが美しかった。
新地町に入って少し歩いた先にある神社、子眉嶺神社に参拝する。この神社も昨日訪れた鹿島御子神社と同じく平安時代からある延喜式式内社だ。相馬野馬追の舞台であり相馬氏の妙見信仰を伝える相馬中村神社・相馬太田神社・相馬小高神社は相馬氏が移住してきた鎌倉時代以降に創建されたので、子眉嶺神社や鹿島御子神社は相馬野馬追よりも一層古いレイヤーの信仰を今に伝えていることになる。子眉嶺神社では子眉嶺神社と鹿狼神社の御朱印が頒布されていたので、初穂料を納めて記念に御朱印をいただいた。
いよいよ鹿狼山に登る。子供のころから何度となく登ってきた鹿狼山だが、この日も多くの登山客で賑わっている。登山口から山頂までは40分ほど、山頂からは松川浦を展望することができる。鹿狼山は一年中登山を楽しむことのできる低山で、毎年正月には日本一早い山開きと称して元旦登山が行われる。
鹿狼山から下山して新地の町中に向けて歩いていき、「ボヌールやすひろ」というパン屋さんに立ち寄る。ここはみちのく潮風トレイルのスタンプポイントにもなっているハイカーフレンドリーなお店だ。12月ということで、アドベントのシュトレンが棚に並んでいた。いくつか、夕食用に美味しそうなパンを買っておく。
みちのく潮風トレイルとの分岐地点には、小さな道標が建っている。ここからゴールまでは、わずかな区間ながらみちのく潮風トレイルから離れてふくしま浜街道トレイルオリジナルのコースを歩く。さあ、ゴールまでラストスパートだ。
新地町役場の前を抜けて新地駅へ。新地駅は海から近い。東日本大震災では、地震発生時新地駅に停車していた常磐線の列車が津波に流されて大破した。大破した列車の乗客は偶然乗り合わせていた警察官に誘導されて避難し全員無事だったそうだ。震災翌朝のニュースで見た、破壊された鉄道車両の映像は、恐ろしい光景だった。もっとも、その日の午後には原子力発電所の爆発という、もっと恐ろしい映像がニュースで流れたわけだが…。
新地駅より海側には釣師浜(つるしはま)という集落があったが、ここも今は集落は無くなってしまっている。かつて集落があった場所は防災緑地公園となっていて、キャンプ場や子供の遊び場などが整備されている。公園の管理棟には、かつての釣師浜集落のジオラマが展示してあった。
最後のひといき、海に沿って北に向かっていく。夕暮れの空は冷たい。ゴールは磯山展望緑地。たどり着いたころには、日も暮れかけて暗くなっていた。ゴール地点は小高い丘になっていて、ふくしま浜街道トレイルのエンドポイントを示すようなものは何もないが、海を臨むフォトパネルが建っている。記念写真を撮り、海を眺めながらさきほどボヌールやすひろで買っておいたパンで完走祝いの晩餐とした。
最後のセクションは32km、9時間半で歩いた。
これで、ふくしま浜街道トレイル約215kmを歩いて全線制覇したことになる。みちのく潮風トレイルを歩き始めて徒歩旅という趣味にはまってから数年、私が初めて完走したロングトレイルとなった。
感慨に浸っていたかったが、寒い。そそくさと来た道を新地駅まで引き返して、常磐線に乗り帰宅の途に就いた。
おわりに
ふくしま浜街道トレイルは、そのほとんどの区間で舗装路を歩くトレイルで、鹿狼山をのぞけば山に登ることもない。山を歩くことがお好きな方にとっては、物足りないトレイルかもしれない。
むしろ、ふくしま浜街道トレイルの楽しみは山を歩かないことにこそある。ふくしま浜街道トレイルのキャッチコピーは「ふくしまの、今を歩く」。トレイルを歩きながら、あの震災で大きな影響を受けなおも変化し続ける浜通りの「今」を、街や里山を歩きながら感じる旅だった。
私は相馬市の出身だが、震災時既に実家を離れていて直接には震災を経験していないし、実家は津波に襲われることも、避難指示区域に含まれることもなかった。だから私は被災者ではない。ただ、相馬、浜通り、福島県を地元とする人間という視点で、トレイルを歩き感じたことをここに記してきた。そういう立場だから、震災のこと、とりわけ原発事故のことを、当事者のように語ることはできないし、さりとて、第三者のように突き放して物を語ることもできなかった。そういう意味では、なんだか中途半端な旅行記になってしまったように感じている。それでも、この冒険録は私が自分の足で歩いたからこそ感じたものを、そのままに綴ってきたつもりだ。ふくしま浜街道トレイルはまだまだできたばかりのトレイル。ぜひ、多くの人にこのトレイルを歩いてもらって、それぞれの視点で、「ふくしまの今」に向き合ってもらえたらと思う。
ところで、ロングトレイルの歩き方には、スルーハイクとセクションハイクの2種類がある。ハイカーとしてはやはり、数か月も旅の空で過ごすスルーハイクに憧れる気持ちはあるが、セクションハイクにもセクションハイクならではの楽しみがある。
新幹線の座席に備え付けてあるJR東日本の車内情報誌「トランヴェール」2024年9月号でみちのく潮風トレイルが特集されていた。その中でHiker's Depotの土屋さんが、セクションハイクの楽しみとして「家に戻っている間も旅の途中になるわけです」と語っていた。私も、徒歩旅を趣味にして以来、次はどこを歩きに行こうか、いつ行こうかと考えては地図や時刻表とにらめっこするのが日常になっている。ふくしま浜街道トレイルの旅はこれで終わるが、みちのく潮風トレイルのゴールまではまだまだだ。みちのく潮風トレイルを歩き終えたとしても、他にも歩いてみたいロングトレイルはいくつもある。「旅の途中」は、まだまだ続く。
「ふくしま浜街道トレイル冒険録」を同人誌にします
さて、最初の記事でも触れていた通り、これまで書いてきた「ふくしま浜街道トレイル冒険録」を、同人誌という形でまとめることを計画しています。
noteに掲載した文章をただまとめるだけでなく、色々と加筆した文章になる予定です。特に、原発事故がらみの話題はウェブ上の媒体では触れにくいので、このnoteでは最小限にしか言及していませんでした。そのあたりの本音をもう少し書き加えられたらなと思っています。
2025年3月15日(土)に大田区産業プラザPiOにおいて開催される「旅チケット10」という同人誌即売会が最初の頒布になる予定です。その後も何回か同人誌即売会に参加できればと思っています。詳しくはおいおいnoteでお知らせしますので、興味のある方はぜひ本を手に取っていただければ幸いです。
それでは、よいお年を。