不安そのものに対峙する前に
言わないでおこうと内に秘めていたはずの気持ちを、自分の弱さにかまけて容易く吐露した結果、恋人に不安な気持ちを伝染させてしまった。
前にも書いたけど、
こんなとき、漫画『凪のお暇』に出てきた台詞を思い出す。
男女間の悲劇の引き金はいつだって”言葉足らず”
確かに彼は言葉足らずに違いないけど、きっとわたしは伝えすぎるのだろう。感情過多の情報過多。
言葉はいつだって、おしゃべりだ。
とはいえ、言わずとして察してもらうなんて傲慢なこともしたくない。
こんなとき、一体どんな言葉を用いればこの気持ちを正しく伝えられるのだろう。想いに正しさなんてあるのかどうか知らないけれど。
大丈夫だ、と思いながら、頭の隅でどこか不安になってしまう。
自分を縛り付けているのは自分自身だと分かっていながらも、その鎖を解けないのはどうしてなのだろう。解いたつもりがいつまでもまとわりついて、ますます雁字搦めになってしまう。
ホルモンの作用だとか、体調に左右されているのだ、と言ってしまえばもともこうもないが、不安という実体がないものの正体がどういう構造で構築されていて、それに対して人間がどういう電子回路を走らせて呼応するのかが知りたいけど誰に聞いたらいいのかさっぱり分からん。
過去の現象が今現在に影響を及ぼしているのだとしても、それを糧にして生かすことだってわたしたちにはできるはずだ。
それなのに、今ある幸せからも逃げ出したくなるのは、なぜなんだろう。いつだってあとから振り返ると正しくあれるけれど、それだと生きている今が不公平な気もする。
抱えるコンプレックスや微塵も望んでいないトラウマによって、人一倍強く不安概念に囚われてしまうのだとしたら、「そういう性質だから」と言って諦めたりせずに、分析をしてなんとしてでも対策を講じていきたい。
そのためには不安そのものに対峙する前に、その感情との適正距離を推し量ることが何より大切なのかもしれない。