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とりこぼしてはいけないもの

恋人が「会いに来て」って言ってくれるのを待ちきれずに、「会いに行っていい?」と聞いたら「大量のおでんを作ったよ」と写真付きの返事がきた。自分ひとりだったら考えられないような大量の具材が投下されたおでん鍋の写真を見て、彼らしいな、と思わず笑う。

一夜では食べきれそうにないアツアツのおでんを、ふたりしてハフハフしながら口いっぱいに頬張る。
「おでん作ったから会いに来てって言おうとしていたら、『会いに行っていい?』って連絡が先にきたんだよね」と彼が湯気と一緒につぶやいた。

・・・

彼と付き合いはじめて気付いたことがある。

それは、好きな人に会うことに理由や意味を考えてしまう癖を一刻も早くやめたほうがいいということ。

自分に自信がないとか、嫌われたくないとか、恋人の失態を目撃して失望したくないとか、いろいろ考えてしまうだろうけど、とりあえずでもいいからできるだけ余計なことは考えずに、まずは『ただ好きな人に会えること』を純粋に喜びたい。
たとえ一緒にいることが馴染んでしまって、いつの日にか大した意味を持ちえなくなっても、一緒にいるということが特別で、そこに意味があるのだと思う。そんなふうに思って居られる自分でいたい。

彼からの「寂しい」という連絡がきたある日。
相手が自分と同じ気持ちで居てくれていると知って、とても嬉しかった。

すこし前まで友達同士だったわたしたちが、「寂しい」とか「会いたい」とか、そういうことを言っても許される間柄になったことは、なんだか不思議でもあって、どこかくすぐったいことだった。そして、そのことは38度くらいのお風呂みたいに、じわじわわたしを温めてくれた。

彼はわたしの恋人で、わたしは彼の恋人なんだとしみじみ思い浸りながら、『この物語の裏に、何かとんでもないものが隠されているんじゃないか?』だなんて、気が付いたらどうしようもないことを考えたりしてしまうことも本当に悪い癖だから、積極的にやめていきたいもののひとつだ。

与えられる愛情を疑ってしまうのはきっと、愛されることに慣れていない証拠なんだと思う。
頭のどこかで「自分にこんな幸せがもたらされるはずがない」と、自分自身の固定概念が自由なはずの思考回路を縛り付けている。自ら歓びを踏み潰してしまうのではなく、怖がらずに愛情をちゃんと受け止めることのできる強さを持ちたい。

ゆっくりでもいい。いつしかそう思うようになった。

わたしはわたしと、わたしの大切な人たちに対して誠実でありたいと常々思って生きてきたけど、自分が思っているよりも「誠実であること」は奥深いものみたいだ。


愛は動詞である。

今、会社の研修で読んでいる、かの有名なビジネス書の一小節にこんな言葉があった。10年ぶりくらいに読んだのだけど、愛について言及していたなんて記憶がなくて驚いている。

宇多田ヒカルがNHKのプロフェッショナルか、ラジオだったかで触れていた「愛とはなにか」という質問に対しての答えに通ずるものがあるなーと、読みながら思ったりした。

愛とはなにか、という質問に対して

(子育てをするようになって思うのは)
愛とは感情ではなくて覚悟
誰かを愛すると決めること
それを意識的に行うこと
そして、相手に愛されてるっていう感覚を
与えようとする、感じさせてあげること

愛、と言うにはあやふやで、まだ恥ずかしくて、今はまだ「大好き」が精一杯のわたしたち。
いつか愛に変わりゆくのだとして、今はまだこのやわい恋を精一杯味わいたい。

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