入る器がなければ、形ないものは存在できない。
T.S.エリオット『荒地』は1922年に発表された。時代的には第一次大戦後。
『荒地』はその当時の現代.人の内面世界を表現しているように思う。
詩の構成がかなり興味深い。
物質世界の欲望、貧富の格差、内面の空虚さ、死と復活のイメージが、それまでの文学という文学のありとあらゆる単語やモチーフで引用しまくり表現されている。それを聖杯伝説のストーリーを土台とし、はめ込んでいるようなつくりだ。
卒論では、『荒地』を題材に、神話とパロディをテーマとした。
外山滋比古先生の著書『思考の整理学』、『エディターシップ』『触媒』の章にエリオットについての言及がある。
エリオットは『伝統と個人の才能』という有名な批評論の中で、創作について『没個性』を説いた。その当時、西洋では珍しい考え方だったが、外山先生は日本においてはむしろそれこそが伝統的であると書いている。
まさにそうである。
俳句や短歌は形が決まっており、季語も存在する。その制限の中で、創造性を発揮している。
また、茶道や書道、さまざまな武道においても、型が存在する。それらは、基本の型があり、はじめから個性はいらない。型を極めた先に、自然と個性が滲み出るものであろうと思う。
入れる器がなければ、心も個性も存在できない。形がないものはこぼれ落ちていくだけだ。
『荒地』の構成は編集的と言っていいだろう。
文学の伝統を積み重ねて器とし、『荒地』を現代(当時)に新しく作り直し書き上げた。そして、人々の感性に新鮮に訴えかけようとしたのだ。