サマスペ!2 『アッコの夏』(5)
暑い。拭いても拭いても汗が噴き出る。今日は八月二十五日。猛暑日だ。しかも真夏の太陽にじりじり熱せられた道路は、間違いなく四十度を超えている。
もう何時間も日本海を右に見続けていた。林が切れて海が見えた時は気分が上がったけど、じきに飽きた。今では真っ青な海を見ていると余計に暑くなる。
いつの間にか、前を歩く由里と大梅田さんの背中が小さくなっていた。歩調がまた速くなっていたんだ。歩き始めて一時間ほどで水戸さんは「きついわ」と言ってペースダウンして後ろに下がっていった。
アッコは意地でも由里を見失わないと決めていたが、さすがに足が重くなっていた。
「おっかさん」
後ろで声がする。にっこり笑ったクリスが手を振って走ってきた。
「ちょっとクリス、おっかさんじゃない。アッコさん。アクセントはアの位置だからね。それだけは直してよ」
まったく花の十九歳だと言うのに。
「ア、ッコさん?」
「まあ、そんな感じ」
「アッコさん、お待ちどおサマ」
「別に待ってないけど頑張ってるね」
「絶好調デス。意気軒昂デス」
「へえ、そんなひょろりとしてるのに体力あるんだね」
アメリカからの留学生はしゅっとしていて、短パンから伸びる足なんかアッコより細い。
「アッコさん、あれ見て」
前を見ると黒い岩壁があった。
「なんだか動物が寝ているみたいだね。虎に見えない? あっ、トンネルになってる」
道なりに左にカーブして行くと、岩壁にぽっかりと半円形の穴が登場する。その前で由里と大梅田が立ってこちらを見ていた。大梅田が棒のようなものを振り回す。
「アッコ、クリス。トンネルだ。懐中電灯、点けろよ。それと狭いから車に気をつけろ」
「了解でーす」
二人の姿がトンネルに消える。待っていてくれたんだ。アッコはチャチャからポケットライトを出した。暗闇が近づいてくる。
「日陰、日陰」
クリスがはしゃいだように、アッコを追い抜いて虎の暗い腹の中に飛び込んでいく。
「あっ、クリス、懐中電灯」
聞いてないのか、お前は。
アッコは後ろから車が来ないのを確認して追いかけた。
「オウ、暗いデス、アッコさん。暗中模索」
クリスの声が大きく反響する。
「はいはい。早くライト、出しなよ」
アッコはクリスのリュックを照らしてやった。
トンネルの中は照明がないが、前方がほのかに明るい。それほど長くないんだろう。
「涼しい」
直射日光がないのがありがたかった。しばらくしゃがみ込んで休みたいくらいだ。足元をライトで照らしながら歩いていると、突然明るくなった。後ろから車だ。クラクションがトンネルに反響する。
「クリス、車」
アッコは叫びながらトンネルの壁に張りついた。トラックは対向車線にはみ出して脇をすり抜けていく。ドライバーだって、こんな所を人が歩いているとは思わないだろう。
慌てて端に寄ったクリスは、追い抜かれる時に起きた風で車体に吸い寄せられそうになった。
「クリス、大丈夫?」
暗くて表情はわからないが息づかいが荒い。
「大梅田さんが車に気をつけろって言ったでしょうが。危なかったよ」
「ハイ……戦慄が走りマシタ」
「またでかい車が来ないうちに早く出よう」
前方の丸い光に向けてあたしたちは走った。
「オー」
光の中に出たクリスが声を上げた。
「すごいデス、立岩、デス」
眼前の海に一つだけ、にょっきりと岩が突き出ていた。
「立岩って言うの? なんだかタケノコに似てる」
苔に覆われた岩肌に、ぽつんと木の枝が生えているのがユーモラスだ。
「クリス、あの奥にうっすら見えてるのが、佐渡島だよ」
日本人として少しは知識を見せてやらないと。
「佐渡島までタライで渡るって本当デスカ」
「えっ、タライで? や、それは無理じゃないかな」
でも佐渡島にタライ舟があるというのは、どこかで聞いたことがある。
渡れないと言いきれない自分が情けない。日本人なのに。
「あっ、クリス。またトンネルだ。車に気をつけるよ」
今度は車が来ないうちに、走ってトンネルを出た。
「冷や汗もんだよね、まったく」
『越後シーサイドライン』の看板を過ぎた辺りで、前を行く由里と大梅田が見えなくなった。道の先が大きく左に曲がっているんだ。
「クリス、ちょっと急ごう」
ほとんどユーターンかと思うきついカーブを曲がりきると、二人の背中が小さく見えてほっとした。赤い橋を渡ろうとしているところだ。せかそうと後ろを向くと、クリスは俯いて歩いている。
「どうした、クリス」
「ちょっと疲れたデス」
「どこか痛むの」
クリスは下を向いたまま金髪を揺らした。
「いえ、単なる疲労困憊デス。そして気持ちが折れそうデス」
外国人にしては豊富な語彙で訴える。
急に疲れが来たんだな。調子よさそうだったのに。
「じゃあ、旗持ちに離されない程度にゆっくり歩こう。もう四時間以上歩いてるんだからゴールは近いよ」
クリスは顔を上げて、またすぐにうなだれてしまう。それでも歩くのはやめない。
「アッコさん、僕たち、なんで歩いてるのデスカ」
「えっ」
言葉が出なかった。
「そう言えば、なんでだろうね」
アッコだってもう足が棒になってる。初日からこの有様で九日間も歩けるのか。
「日本人は不思議デス。なぜこんな理不尽なツアーをするのでショウ」
「さあわかんないな。悪いけどあたし、疑問を持たない方なんだよね」
「なぜに、アッコさん」
クリスは肩をすくめて両手のひらを上にした。さまになってる。さすが本場の人だ。
「これは大いなるミステリー、デス。一緒に解き明かしまショウ」
「あたし、別に探偵じゃないから」
「僕は夏休み中にレポートを書かないといけないのデス。日本人について」
「えっ、それでサマスペに参加したわけ?」
クリスは大きく頷いた。
「夏休みを利用して、日本ならではの若者の活動に挑戦しようと思ったのデス。キャンパスで取材したら、みなさん異口同音、サマスペを紹介してくれマシタ。その通りデス。まさに奇天烈と言っていいでショウ」
「奇天烈か。あっ、ほら急ごう。由里たちが見えなくなったよ」
アッコは歩調を速めて橋を渡った。クリスはふうふう言ってついてくる。留学生のクリスがメンバーに混じっていたのはそういうわけか。しかし、解き明かしまショウなんて言われても、アッコにだってこのサマスペの趣旨は不明だ。由里に誘われたから参加しただけだ。
「まあ、あれだよ。そのうち、わかるんじゃないの」
「そのうち……それは可及的速やかと同じ意味デスカ」
「うるさいな、もう。きりきり歩け」
アッコはクリスを従えて二股の道を真っ直ぐ進んだ。
「案の定だな」
「わっ、びっくりした」
「アッコ、そっちじゃないよ」
左の道の脇から大梅田と由里が出てきた。
「何してるんですか、二人とも」
大梅田はアッコとクリスが進みかけた道を指さす。
「そっちはな、国道402号なんだよ。内陸に入ったら402号から460号に変わるって、幹事長に言われただろう」
「ええっ、そんな標識、ありませんでしたよ」
「ハイ、僕も見ませんデシタ」
「クリス、あんたは下ばっか見てたでしょ」
大梅田はアッコたちの後ろを指差した。
「小さな標識が橋を渡る所にあったんだよ。この先で道が分岐するってな。だが歩いている俺たちには、ここに標識がないとわからん」
「そうですよ、本当に……あっ、と言うことは隠れて見てたんですか。もう人が悪いな。でもとにかく、こんなのみんな間違いなく間違えますよ。ねえ、クリス」
「間違いなく間違える? 難しい日本語デス」
大梅田が地図を見る。短く刈りそろえた髪に指を突っ込んだ。
「まずいな。402号に行ったら、また海岸に戻っちまう。巻駅になんか、金輪際、着けないぞ」
「あの、大梅田さん」
由里が自分のリュックに手を置いた。
「私、テープを持ってます。こっちの道路に460って数字の形にテープを貼ったらどうでしょうか。それと矢印も」
「由里さん。かしこいデス」
「うん、由里、それいいね」
サマスペのことになると、由里は喋るんだな。しかもナイスアイディアだ。
「よく考えたな」
大梅田も由里を見て呟いた。
「それも手だ。でも遅れてるやつは、ただでさえ疲れてるからな。暗くなって見落とされたらまずい」
「あ、そうか」と由里。
「おお、梅。ここ、わかりにくいな。どっちに行くんだ」
水戸が追いついてきた。
「左が460号だ。水戸、ちょうどいい。臨時の立ちんぼをやってくれるか」
「ここでか」
「ああ、後続が間違えないようにな。最後尾が来たら一緒に進んできてくれ」
「わかった。任せろ」
なるほど。さすが経験者は違う。
「立ちんぼ?」
クリスがアッコをちらりと見る。確かにこんな日本語は教わらないだろう。アッコだってついこの間まで知らなかった。
「目印に立ってる人のことだよ」
クリスに小声で教えてやった。
「水戸さん、お願いします」と由里。
「あいよ」
少しでも早く宿に着きたいはずなのに、水戸はこれで最後尾が確定だ。それなのに水戸は嫌な顔一つしない。アッコにはそれが不思議だった。
「水戸さん、すいません。お先に行きます」
アッコとクリスは水戸に頭を下げて、左に延びる460号を進んだ。
<続く>
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