降り積もった時間で霜焼けになるならそれでも良い
学生時代、一人の女性パフォーマーさんに出会った。悠に50を超える彼女はノースリーブの花柄のワンピースを纏って、一本の傘と、古い大きな鞄を一つ持っていた。多くの観客や通行人が見守る中、鞄から取り出したトイレットペーパーをクルクルと回して、赤い煉瓦が敷き詰められた道路に延々と白い線を描いたかと思えば、それを回収しろと観客の一人に促す。勿論言葉ではなく、指先と目線一つで。苦笑いしながら手伝う一人と、それを面白そうに眺め、時折笑い声を上げる観客…。
その後どうなってラストに繋がったかは正直覚えていないのだけど、彼女はもと来た道を再び傘と鞄を持って歩いて行ってしまった。遠ざかる背中と、コツコツとした靴音。ノースリーブから覗いた日焼けした肌。私はそれを見た時に、胸が熱くなるような気がした。
彼女の肌は、いわゆる綺麗な肌ではなかったと思う。若くて白くて艶とハリのあるものではなく、日焼けし、シミがいくつかあり、筋力が落ちた為であろう少し弛むように柔らかい輪郭を描いた腕だった。
人間の体には新陳代謝という機能がある。内側から外側へ、少しずつ組織は移動して最後には剥がれて新しい皮膚が現れる。古いものから新しいものへ、体は延々と変わり続けるらしい。
言い方を変えれば、人間の体は常に新品の状態である。けれど、歳を重ねると共に体の機能は衰えるし、肌のダメージは蓄積され、シミや皺やたるみが現れ始める。世の女性はそれを少しでも遅らせようと、せっせとエイジングケアに励んでいるわけで。
ただ私が言いたいのは、老いは自身を低下するものではないのだということ。傘と鞄を持った彼女を見た時、歳を重ねて衰えた肌を見た時に、それがとても美しく見えた。その体とともに、彼女は50年を超える時間を過ごしてきたんだ。生まれ、少女時代があり、いつしか女性と言われる年齢になり、次に淑女、老女と言われるまでになった彼女。あの肌に現れていたのは、彼女の時間だ。
今年で私は24になる。24年を生き抜いてきた私の体。実は、私は私の体がとても好き。皮膚が薄く、血管が浮き出やすく、傷も残りやすい。小さい頃に転んだ時の傷跡が今も膝小僧に残っている。それを見る度に、私は私の体で良かったなと思って、その傷がとても綺麗に見える。これから増えるだろう打撲や傷跡やシミや弛みやくすみが、どんどんこの体を彩ってくれる。そう思うと、歳をとるのも存外悪くないと思うのだ。
だから、降り積もった時間で霜焼けになるならそれでも良い。