2024/11/15
タイトル、テーマを決めて書くには、まだ、あまりに取り留めがないもので、〈何も考えないで書く、何かを書こうとせずに書く〉をしてみることに。
森羅万象っぽい、と、今年になって違う時々、場、土地で言われた記憶がある。他にあてはまる言葉がきっとなかったにしても、言ってくれた人たちは、仕事と遊びの境界線は年々分からなくなっている中、"その人"やそのチームにおけるパフォーマンスの面では圧倒的に格上に感じる相手だったから、はぁ、ははぁとなって言葉は受け取ってみた。頭の働きと心やからだがバラバラになっていたり、ぜんぶが浮遊している折が多く、従来のように意味を考えるどころではなかった。森羅万象、ふむふむ、と。四文字を試しに分解してみると〈羅〉が、他の三つよりピンとこない。伽羅、螺旋は違うか…般若波羅、うん、最近はよく書いてる羅の字。イメージも単語も他はあまり浮かばない。
一昨日までの数日間は、写経とは別の書き写しの作業をしていて、〈森〉という場面を書き写していた時に、そういえば、と、森羅万象という単語を思い出した。あの時の、あの森、日頃、剥き出しにする茂み、今、書き写しをしている紙に印字されている事柄のイメージとしての森…
他に、わたしにその時、掛けるあてはまる言葉がたぶん出なかったのだとは思う。もうひとつあった。みのりさん、みのりちゃんって⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎⚪︎、⚪︎⚪︎⚪︎タイプだよね、とも。今は書かない。もうその場を保つためにはこの言葉しかない、みたいなことはずっと起きていたけど、あまり断定しないタイプの人までが、呆れたのか、現状を肯定するために苦し紛れなのか、わたしを励ます為なのか、口に出された。時を少し経て、ぜんぶなのだと思えてきた。ありがたい。
前投稿にも少し書いたけれど、みのりさんは意外とウブなところがあります、とも今年はじめて会った方に何気なく伝えられ、これには大いに納得。どんなにむごい現実も、終わりが来て欲しくはない夢見心地も、企画外な恥ずかしがり屋さん的初心の力で、どうにかなる場合が今迄は多々あった。
× ⚪︎× × △ ◽︎
自分の目にする光景、居合わせる場…での出来事、体験の連続が、習慣や決まりがなく、取り留めがなく、どれも予定調和ではなく、心の赴くままで、今はデッサンもせず、現像にまわさなくても"簡単"に、あまりに簡単に、はやく、〈その〉わたしの心の高まりが起こった一連の流れであったり、目の前にあった風景、記録としてのパシャ(画像)を所持、示すことまでが可能。だから、ついつい忘れまい、とか供養と言って流出したり、アウトプットだなんてやってみる。細かくは違うのだろうけど、ぜんぶ一緒と言えば一緒。そこに、時間の重みや深みがからみついてくると、心の高まりはどこまでも広がる。
記録としてのパシャ(画像)が決してうまくなくても、簡単に示せる、自分の行動の足跡、軌跡、轍…その一連の流れは手元にたくさんある。つい、残そうとしてしまう。
でも、先にそれを出してしまうと、画像"ありき"だと、中々に、あるはずの今の今まであったはずの、心の高まりをかき消してしまうというか、邪魔してしまうというか、一騎打ちというか、消費なのか、よくわからないけど、結局のところは、高まりすぎて消したいから放出するのだろうけど、さっきまであった己の心の高まりが、誰かに知られたり、認められたりするのと同時に、新たな欲望と裏返しのむなしさの影が付き纏うことの経験は自分も茶飯事並みで、そんな人の度がすぎる振る舞いもよく目に付き、見受けられる。
記録としてのパシャ(画像)と同等の言葉の〈羅〉列が完了した暁に、画日記を
何も考えずに書き始め、羅で回収できて何か変なの〜と嬉しいの半々。予定調和ということも
心許ないけれど、まだ画像はなし
タイトルは何だろう…こういう時、日付は便利
言霊、空海、他力・自力、座ること…ひめごと、密教……朝から万全すぎる森羅万象。(空)スペースを作らないと………あたま、からだ、ぜんぶに
見出しの記録としてのパシャ(画像)何にしよう。今日会う予定の人に、覚えていたら話してみたい人にまつわる画(メモ)。