さらに潜る
闇に吸い込まれるのを、一旦放り出すことをやっと思い出してきた、というのか闇に喜んで吸い込まれるのを止めようという正気なのかを少し思い出せてきた気がする。
わたしもやさしい嘘がつけたらよいのだが
乗り越えられず刻々とたまってゆく現実の欺瞞、虚構にのみこまれてゆく、ゆく
それでしか生きてゆけないことで生きているからこれくらい仕方ない
どこまでも潜ってゆこうとも再び思った。いつもみたいに勢よく歩いて、命がけで突っ立って気付いてたら死んでたみたいなのがいい
後悔って何ですか?
劇場という場を離れ、お盆休み真っ只中の観光地というシェイクスピアの言うところの群衆の劇場を離れ、あるのかないようなのか分からない生活に浮かず、沈まず
なぜ、何日か前までは命が宿っていたであろう肉の塊、臓物に値段がついているのだろうか、ふとスーパーで思う、何十回目か
芸事なのか、生存確認なのか、欲望を満たすために時間を買うのか、使うのか、潰すのか、生きるための材料なのか、何をもって商売となすのか、何度でも陥るストリップの迷宮…
この何年も、世の中の縮図、小宇宙という思いは変わらない。
ただ…
在ることなのに、それ在りきなはずなのに、おおっぴらには語られず?語りきれず?その営みを愛するたくさんの人の気持ちに支えられた弛まぬ努力により聞くことの増えてゆく賞賛の言葉の勢いによって、影を潜めなくてはならない扱いになっているようにも感じる肉体の一部、その扱われ方の変遷と偏りがどうも気になってしまう。場では、まだ辛うじて重要視されているようには思えるような…でも今を生きる目の前の人が求めていそうなものやみたいことを、動物的な勘で察知できる時もあって(笑)それがもし半分くらい当たっているとすれば…自信も確証もない。自分で自分のものは鏡越しにしか確認できない。
踊りだ、文化だ、女だ、内面だ、芸能だ、芸事だ、アートだ、お祭りだ、人間だ、信頼だ、推し(これだけは日に日に大嫌いになってゆく言葉)だの、やさしい世界だ、肉体だ、表現だ、美だ、感動だ、癒しだ、明日への活力だ、エロだ…
そうだ、そうだ、その通りだ(村人a)
(段々と、そう信じてきてしまっている母の面影を感じる踊り子さんのステージは毎回涙が出てくる。踊りも裸体も大変きれいな方。大抵はへえ〜すごい、元気でる、いいもんじゃい、に留まる中、全く趣味が近いこともなさそうで理由もなく突発的に目が離せなくて惹きつけられた踊り子さんが偶々ひとり。中々、面識がない故みにゆけない。あとは背丈が170cm近くある踊り子さん方の量的なスケール感は自分にはない身体の要素なのか痩せ型肉づきに関係なしにどちらもすごく本能で引き寄せられて脳裏につよく残っている。衣装や肉体や姿勢や肌が。なぜだろう)
あまり自分こそ他の踊り子さんのブツは拝んでいないのかも。決してないことにしている訳でもない。みていいですよ、みたいな状態にしている人は多いな、なぜだろう(呑気)
2010年10月の初ステージの10日間で(10がいっぱい。そもそも10日ってなぜ?トイチがどうのって聞いたことがあるけれどやっぱりそれが由来なの?荷物代がだいぶ跳ねあがっているからどうなのだろう…と気にはなる)その劇場ならではの行為で、嗚呼人類はみな平等なんだな…と思った。その思いは感動に近く、自分でも後からついてくる価値などに揺るがされることは多くなっても、どうにかベースとなっている。
実際は、懐や時間の、心の余裕…色んなもののあるなし、運、めぐりあわせでたのしみの度合いなどは変わるにしても…
どうなのだろう、そのあたり。
少なくとも、自分自身をさらけた側のひとりとしては、目の前に普段、隠されたそれが明るみに出ることに対し、顔をしかめ目を背ける人、殺意をもよおす人、憎悪が生まれる人、何かが耐えられない人、許せない人、うれしい人、びっくりする人、おもわず笑っちゃう人、讃える人、広めようとする人、独り占めしたい人、眠たい人、リラックスする人、興奮状態の人、思考が止まる人、元気が出る人、愛おしくてたまらない人、見飽きている人、安心した人、切ない気持ちな人、何が起きているかよく分からない人、どうでもいい人、呆れている人、誇らしい人、腹を空かせている人、時間が気になる人…ひととおり想像し、思い浮かぶことは書いてみたけど、まだまだいくらでもありそう。
そんなことでもないのかも知れない。みた時、近くにくるときどう思うのだったっけ…
触れてはいけないもの、お賽銭はしたくなる方かも(ある程度、労力が想像ついたり、それは対象との関係性もあると思う)ありがとうございますとも。あまり何も考えない。大きさ、色、かたちよりも顔の表情をみてしまったり、全体だったり。あの人、両性具有に近いんじゃない?とか誰かがむかし噂していたのを聞いたことがあったような。それはみせてもらえる機があれば、すごくみてみたかった。めずらしいことだと思うし、興味は倍にもなる。もう誰のことかも忘れてしまったし、そんなに長くもお披露目せず去られた方だったか、或いは界隈では知る人ぞ知る有名な人だったのか、はたまた噂元の邪推なのか…真相は私にはついぞ知ることはなかった。
楽屋に出入りする衣装屋さんが売りに来ていた商品で、以前はこんなものがあった、と当時を知る人たちからは聞いたことのある総レースのお部屋着のような、今は見知ることのできない存在を思った。
それぞれの人の生活との関連なのかな、その迷宮とは
昨日あたりからそんな気が沸々と
こうなるといいな、理想の体現、運動、能力的なこと、てっとり早さやサービス、ニンゲンの営み、工夫、商売の効率、AIばりの学習はどこまでもどこまでもどこまでも、ゆくのが目に見えるのだけど、終わりのその時が来てしまえば、リセットされ、細胞や技はたえず進化し、成長しても…竜宮城のようなその働きで、平らにされ、ゼロに均される何かがあるような……
身体、モノとして
獣、ケダモノの誇り、どこまで
(見出しの写真提供は一楽さん)
7月31日の四鬼のこと、8月3日〜10日の熱海でのとりわけニューお宮と貫一のショーなどは、周囲の方々からのお力を借り、時代の流れにかなり逆らい、理由もなく、意味などにとらわれず、潜り抜けられた貴重な時間でした。ありがとうございます。
使ってこそモノ、使ってこその身体にしても、それらしく、願ったように、すばやく演じ、快適につつがなく生活しようも、みようとするほどに生じ、付き纏うこの貧しさの正体は何なのだろう