14:止められない自傷と他者依存
マガジン「人の形を手に入れるまで」の14話目です。まだ前書きを読んでいない方は、こちらからご覧ください。
初めて自死を明確に意識したのは高校生の時だった。母に首を締められたあの日から、自分の価値に疑問を持ったあの日から、漠然と抱いていた自死への憧れは現実感を伴った。
でも、同じく母からの教えで『自死はいけないこと』と刷り込まれていた私は、最後の一歩を踏み出すことができなかった。その代わりのように、私は自傷行為に耽った。
自傷行為と聞いて、多くの人は何を思い出すだろう。有名なのはリストカット、アームカットあたりだろうか。当時のドラマではそういった「学生の苦難」にスポットを当てた作品も多かった。境界性人格障害、非定型うつ病と言った診断名が流行っていた頃だ。
例に漏れず、私もそれをした。腕と手首と太ももと、服を着て隠れるところは大抵切ってみた。母のタバコを拝借しては、腕に火を押し付けてみたりもした。10年経った今でも、その時の火傷跡と切り傷は体のあちこちに残っている。
もちろん私はカッティングを推奨するつもりはない。でもあの頃は、「それ」をしなければどこまででも私が私から離れていく気がしたのだ。痛みで現実に引き戻される、切ることで自分の外殻がそこにあることを知覚する、焼かれる肉の匂いで私が生き物であることを思い出す、そんな感覚。私にとって自傷はちょうど、赤ちゃんが指しゃぶりをして自分の外側の形を知る行動に近かった。
自傷行為とは、広義では「自分を傷つける行為」を指している。過食、拒食の様に自らの健康を傷つけることも、自ら望まないセックスをして体を危険に晒すことも、自分を痛めつける相手をパートナーに選んでみることも、広義の解釈では「自傷行為」だと言われている。
今振り返れば、当時の私は対人面での自傷行為も見られていた。「お金貸して」「バイトのシフト変わって」「ナンパうまくいかなかったから今晩遊ぼ」…体良く利用されているのにもかかわらず、私は喜んだ。「こんな私で良ければいつでも使ってどうぞ!」「お金ならどうにかして稼ぐからまた遊んでよ!」あまりの自己肯定の低さに、人から利用される事でさえありがたいと思っていたのだ。
そんな私は大学時代色んなことに挑戦した。スポーツジム、ホームページの作成、友達の漫画の作画、ネズミ講まがいの通販、オンラインのアダルトサービス、他にも誘われたものにはひとしきり手を出してみた。ノリがいいやつと思われたかった。たくさんの人に誘われたかった。全ては、「その時」に自分の利用価値は高いと思われたいが為。何処かで誰かから必要とされたい、そんな満たされない自己肯定欲に振り回されていた。