15:自分の価値を下げるための行動
マガジン「人の形を手に入れるまで」の15話目です。まだ前書きを読んでいない方は、こちらからご覧ください。
ありがたいことに、中学、高校、大学と、私には大概いつも恋人がいた。誰かといないと不安で仕方なかった私の内面は、常に特別な誰かを求めていたのだと思う。彼らは共通して優しく、おおらかで、それでいて少し優柔不断なパーソナリティだった。
おそらく私はそういう人を自然に選んでいたのだろう。そうでなければ自分に付き合ってくれるはずがない。同情してくれる人でなければ、一緒にいてくれるはずがない。(こんな私と一緒にいてくれる人、という意味で、都合よく私を使う人にも「優しい」という言葉を使っていた時期もあった)
だが思えば私は、その恋人たちに対しとても不誠実だった。その場その場で一緒にいてくれる友人を優先し、恋人からかかってきた電話に出ないこともしょっちゅうだった。なんで電話に出ないのかと聞かれれば、「浮気を疑われている」と被害的に捉えメソメソと泣き出す始末だった。
愛されたい、必要とされたい、大切にしたい、次こそは誠実になりたいと思っているのに、思いとは逆の行動をとってしまう。当時はそんな自分の行動が自分でも不可解で、自身のコントロールが及ばない自分に嫌気がさしていた。どうしてそうなってしまうのか、自分でもわからなかった。
今思い返せば、これにはふたつの側面が考えられた。ひとつは、「自分にどこまで許してもらえる資格があるか」を試す側面。もうひとつは、「自分の自己評価と実行動を同化する」側面だ。
当時の私の自己肯定感はすこぶる低かった。自分を性的に搾取する人がいたとしても、「お友達づきあい」してくれるならそれでいいとさえ思っていた。だが、そんな自分を「大切だ」と言ってくれる恋人がいる。「彼らは私の何を見ているのだろう?」その疑問こそがこの行動の根源だ。本当の私を知らないくせに。本当の私を見たことないくせに。大切だなんて嘘っぱちのくせに。相手の気持ちが「嘘である」と確かめるために、何度も何度も、自分の「悪い側面」を見せつけた。
そして、その行動はふたつ目の側面につながる。低い自己肯定を、恋人が「そんなことないよ」と上げようとしてくれる。嬉しい半面、それは自分にとってとても不安定な感覚で、心の安定のためには慣れ親しんだ低い自己肯定の場所にとどまりたい。だから自分の行動を「最低だ」と呼ばれる人間寄りに調整する。そしてそんな私に振り回され続けた恋人が愛想をつかせば、「やっぱりね、こんな私じゃ無理もないわね」と納得し、低い自己肯定にまたすっぽりと収まるのだ。
今でこそ当時を冷静に判断できるが、当時は混乱の中ますます自傷的な行動を加速させていた。相手を振り回し、傷つけ、またそれを悔やんで落ち込み、その落ち込みから自傷に走りまた相手の気持ちを振り回す。恥ずかしながら、この心理構造に気がついたのは28歳ごろになっての話だった。