続 邦楽の新しき希望 〜折坂悠太〜
折坂悠太氏には、日本一素晴らしい野外フェスともいえる 「frue」 の2022にて初めて生で聴くことができた。
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はっきり言って衝撃だった。
その音楽が奏でる世界観はなんだか僕の心をひどくえぐった。勿論それはいい意味で、だ。
とくにSam Gendelをfeat.したこの炎を聞いた時には.筆舌に尽くせぬ感動を覚えたものである。
なぜか、ふと遠い昔、自分が子供だった頃のことを
思い出した。
私の生まれ育った実家の近くには大きな川があった。そして堤防があり、
子供の頃はよくそこで遊んだのだが、
なぜかその堤防から見た、
懐かしい夕暮れを思い出した。
子供の頃の自分と再び出会ったような、
哀愁さがつきまとうのだ。
この凄まじい哀愁とリフレインの波。
望郷の念もここに含まれるだろうか。
私は遥か彼方にぶっ飛ばされてしまった。
話を日本の音楽の事に戻そう。
昨今、例えば韓国のポップスなどは、
日本はおろか世界中でもヒットをしている。
ところが、日本産のポップスはどうであろう。
国産ながらも、世界で羽ばたいているバンドや音楽は、「マイナーシーン」では無数にあるのだが、
メジャーシーンだとやはり皆無なのである。
そうなのである、
日本のヒットチャート、
いや、トップチャートは
極めて独特なのである。
ずっとそう。
日本でのみ、通用するという側面がかなり強い。
恐らく世界でも日本でも等しくヒットしたのは、
数えるばかりかもしれない。例えば、YMOなど。
※ちなみにYMOも、今のK-POP同様、
「最初から」世界を意識して作られています。
坂本龍一氏が、邦楽は世界を見なさい、
というような趣旨の一言を残していますが、
とても説得力があるように私は聞こえます。
まぁ、音楽の好みは人それぞれなのであり、あまり否定することはしたくないのだが、
やはり日本でウケる、ヒットしやすい曲というのは何かしらの規則性や傾向があり、
それらを十分に考慮した上で作られてきた側面がある。
音楽とはいえ、芸術とはいえ、
ある種コマーシャルにならざるを得ないだろう。
人に聞かれなければ意味はない。
売れなければ見向きもされない。
無論メジャーシーンの曲も、それらを意識された上で、とても緻密に練り上げられているものであるのだから、それはそれで素晴らしい。
流行の中で新しい試みや、あっと驚く技術が入っていることも勿論ある(らしい)。
まさに日本のポップスの、J-POPの職人芸というのはこの辺りにあるかもしれない。
マニアックな音楽理論は、(専門に学んできたわけではないので)私にはよくわからないけども。
だが、どうしたことだろうか、
そんな日本のトップチャートを席巻する音楽であっても、
世界にはずっと打ってでていけていないのだ。
これは言い換えると、日本の一般的なヒット曲が、
世界では全く見向きもされないという現実でもある。
僕が結果として、あまり邦楽を聞かないというのもこの辺りにある。
勿論、僕個人の音楽の好みの問題なのだが、
僕は歌が本来もっているような
ピュアな感情やあたたかみや、生々しいもの。
コマーシャルというより、
リアルであり、
時に心をかなりえぐられるようなもの。
そう言ったものを音楽に限らず常に求めているから
僕みたいな偏屈者は
そういった音楽に惹かれる傾向があるのだろう。
今回紹介している
折坂悠太氏の音楽には、一聴する限りは
とてつもなく和を感じるし、
紛れもなくこれは邦楽だとも言えるのだが、
しかし、この心をえぐるような
感情を揺り動かすさまは、
とても内向きで内需的なポップスさであるはずだが、
決して日本人だけが理解できうる
感覚という訳でもないはずだ。
いや、むしろ世界に通用しうるものだと感じた。
こんな事を感じるアーティストには
久しぶりに出逢えた。
きっと彼は国内だとか、
邦楽だとか洋楽だとかそんなのを全く意識していないところで音楽をやっていると思うが、
随所に「彼らしさ」がある。
それがとてもよい。
今回折坂悠太氏の音楽を聴きながら、
第一線級の日本のポップスでありながら、
世界であっても通用できうる個性とクオリティがあるもの、
久しぶりに私はそういったものに出逢えた気がして、とても嬉しくなったものである。