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幻の一眼レフ

1979年の、何月だったか、
ブラジルへの赴任が決まった父は、家を決めたり色々な生活基盤を整えるために家族より先に日本を発った。

当時の日本におけるブラジルの情報というのはとても少なく、子供の僕が理解できるのはせいぜいアマゾン・ピラニア、ぐらいなもので、フジヤマ・ゲイシャと同レベルだったが、父からの手紙や写真、送ってくる物が強烈な異国のリアリティももたらしてくれた。
「今日釣りにいったら一緒にいった人がピラニアに指をかまれて大変だった」とか、「肉が食べ放題で大きさが僕の顔程ある」とか、ピラニアの剥製だとか水牛の角のキーホルダーだとか、サンバの人形だとか、
神奈川県の実家のテーブルに広げて家族で驚愕したことを良く覚えている。

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入っていた写真はあまり綺麗に撮れていなかったが、

「お父さんカメラ、買って行ったよねえ。」

「まだ使い方よくわからないんじゃない」

みたいな話だけあった気がする。

父の渡伯から約半年間、そんな事が繰り返され僕らも(というかほぼ母が)海外への引っ越し準備という壮大なミッションの中にいた。

そして、もうフライトの日も決まるようなタイミングだったと思うが、父からカメラを持ってきて欲しいと言う連絡があった。

「あれ、新しく買って持って行ったんじゃないの?」

なにか国際電話で母と話していた様なおぼろげな記憶、、

「手放すことになったみたい、、」

母は何か不満そうな感じだったが、
僕は当時写真にも目覚めてはおらずカメラの知識もなかったので、

「そうなの?」

ぐらいでその話は終わった。

半年後家族で渡伯、暫くはそのとき持って行ったコダックの110という小さなメガネみたいなフィルムをつかうチープなカメラしか無かった。それでも良く使って、ぼんやりした写真がたくさん残っている。(これは家族の腕によるところもあるが)まあ、写真があることが大事なのだ(^^)

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渡伯3年が経ち一時帰国した時に、ちゃんと普通の35mmフィルムを使う色々とオートになったミノルタのコンパクトカメラを家族用に買った。それは本当に良く使った。
飼っていた猫を撮ったり、空港で飛行機を撮ったり、自分で作ったプラモデルを撮ったり。この頃からプロのフォトグラファーになる片鱗があった、かどうかは分からないか、結構家族では僕がカメラを独占して使っていたと思う。

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修学旅行でもちろんそれを持って行ったのだが、中学になってからブラジルに来た同級生が持っていた一眼レフカメラがとてつもなくカッコよく、羨ましかった。
たしかキヤノンのAE-1プログラムだったと思う、それが始めて覚えた一眼レフの名前かもしれない。

あのプリズムが三角形に出っ張ったフォルム、、玄人の道具っていう雰囲気があるように思え、そんな写真の世界に憧れを抱いたのを覚えている。

ブラジル時代の我が家のアルバムは基本的に人からもらったり買ったりした写真で構成されている。自分達が写っている記念写真なのだから当たり前なのだが、それにしてもすごいビジュアルの写真が多い。背景がイグアスの滝とか、リオのコルコバードとか今みるとスケールの大きな記念写真だ。


プロのフォトグラファーになって、その記憶を辿る様に三度、仕事の撮影でブラジルを訪れたが、やはり素晴らしくフォトジェニック!!。そこで撮影したレンソイスの水晶の砂漠やイグアスの滝の写真を使い、勢いで写真集を作ったら全国カタログポスター展でグランプリを頂いてしまった。

審査委員長の故勝井三雄先生曰く、「見たことのない美しい印刷、なにより写っている写真が素晴らしい」

ブラジルとはそう言う国なのだ。

さておき、ブラジル在住時代にちゃんとしたカメラがあったら、もっと早く写真に目覚めるなり作品を残すなり出来ていそうなものだ、あの父が買っていったはずのカメラは何だったんだろうと改めて知りたくなり、80才を超えた耳の遠い父に聞いてみた。

父曰く
「たしか発売されたばかりのニコンの一番高い一眼レフだったなあ」

え!、、そんないいカメラだったの、

「ブラジルにはそんな物がないから、現地の仲間にどうしても売って欲しいと言われて、あまりにも熱心に言うから、断りきれずに売っちゃったんだよ」

はい?、、

「まあ、お父さんあんまり機械得意じゃないし、使い方も難しいなあ」

本当ですか、、父上、、。

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お人好しというか何というか、、ブラジルに行くからと無理して買った一眼レフをブラジルで売ってしまうという、、輸出してどうすんのさ。。それ、僕の同級生が持ってたやつの倍ぐらいするんですけど、、

まあ、あとの祭りというか、40年経って腰の抜ける話だった。おそらくそのカメラはニコンのF2。今でも中古で値段のつくカメラである。

僕は一度もその父の買ったカメラは見ていないので、実際のところは幻の一眼レフのまま、そのブラジルでの売買のやり取りに想いを馳せるのである。いったいいくらで売ったのやら。

でもまあ、当時あの素晴らしいビジュアルのブラジルを思い切り撮っていないという経験も僕をプロの写真家にする原動力の一つだったのかもしれない。

し、

それがあったらもっと早くプロになっていたかもしれない。

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まあそれも幻のような話である。

なにもりもブラジルに家族を連れて行ってくれた父に感謝したい。親父、ありがとう。




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