「見えるものと見えないもの−画家・大﨑真理子のみた風景−」上映によせて
中学の同級生だった大崎真理子さんの映画が高知市のあたご劇場で
2023年8月12日から25日まで上映される。
本記事はその宣伝を目的とするものだが、私がよく知るのは画家としての真理子さんではなく友人としての真理子さんであるため
どうしても私心を多く挟んだものになってしまう。
本当は、宣伝にかこつけて、彼女との思い出を振り返り、自分のどうすることもできない極めて個人的な感情を吐露したくなっただけかもしれない。
「まりちゃんがねぇ、死んだのよ」
2018年2月。
彼女の母親からかかってきた電話の口調を、今でもはっきりと思い出すことができる。受話器をもつ自分の手の指先が冷たくなっていったことも。その日は温暖な高知県にしては珍しく雪が降っていたことも。
真理子さんは京都の芸術大学で油画を専攻していた。
亡くなったのは、大学院の成果展の前日だった。
彼女は徹夜で絵画を描きあげ、作品が完成すると疲れ果て、お風呂に入り、そのまま眠り、溺死した。23歳だった。
↑絶筆「あの日のユンボ」(連作)
真理子さんは特別な人だった。
片田舎の中学校で芸術と向き合っている人を初めて見つけた。
私は彼女に出会ってから絵を描くことを始め、それまでに作った作品は全て彼女に見せた。
他の誰にも話せないようなことも、まっすぐな目をした彼女にだけは話すことができた。
トップの写真は、真理子さんに誘われて一緒に瀬戸内芸術祭に行った時のものである。
私はそこで初めて現代アートに触れた。
「こういうもの作るの、楽しそうだね」
「そうだね」
という話をした。
しかし彼女が大学に進学し、だんだんと距離を感じるようになった。
彼女は絵の道に進み、私は地元で哲学を学んでいた。
彼女が卒業制作で市長賞を受賞し、着々とキャリアを積む中、私は美術とは縁遠い田舎でそのまま図書館への就職が決まった。
自分には歩むことのできない道を真理子さんが歩んでいるという感覚があった。
彼女が亡くなったその日、私は京都の彼女の家に泊まる約束を数ヶ月前にしていた。
成果展も見せてもらう予定だった。
しかし私は彼女に連絡を取らなかった。
就職活動で疲弊していた私は、彼女に連絡を取ることが辛かった。
あの日、彼女の家に私が泊まっていれば事故が防げていたのではないかということを何度も何度も考えた。
なぜ中途半端な人生を歩む私ではなく、彼女の命が奪われたのだろうということも考えた。
今、私は28歳になって芸術大学に入り直し、現代アート中心の学部で学んでいる。
くしくも彼女と行った瀬戸内芸術祭が、現代アートを学ぶ契機となっている。
最初からこうしていれば、自分の気持ちに正直になっていれば、彼女に嫉妬することもなく、彼女が命を落とすこともなかったのではないか。
今でも、私は自分の作ったものを彼女に見せたい気持ちが湧いてくる。
忌憚なく、お世辞もなく、でも相手に常に寄り添い、自分を曲げることもしない。
そのまっすぐさが彼女の描く絵画には現れている気がする。
私は彼女に許して欲しいという気持ちでこの文章を書いているが、それは一生叶わない。
せめて、声を失った彼女の代わりに、彼女の映画を宣伝したいと思う。
映画では、高知で開かれた彼女の遺作展を舞台に、彼女の作品と思想に迫っている。
もしよかったらご覧ください。