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届かない言葉

「積み重ねた行為に比べれば、言葉って本当に何の意味もないよね」
そうふいに言葉が口をついて出てきて、自分はなんて後ろ向きなことを言うんだろうとうっすら後悔し始める直前に
「それは本当にそう思う」
と友人が全面的に肯定してくれて、それが最近起こったことのうち1番嬉しかったことの1つである。

友人は荘子の「言を忘るるの人を得て、これと言わんかな(言葉を忘れられる相手を見つけ共に語り合いたい)」という言葉を引用していた。

友人の本棚には、私の家の本棚と同様、名著がぎちぎちに詰まっていた。言葉に人一倍期待してきた者同士で、共に言葉に失望している状況が、哀しくておかしかった。

最近、幸いにも3つの展示を行う機会があり、私がここ1年半の間に作った映像3本を立て続けに観返した。
3本続けて見返した感想として、自分が他者と言葉に対していかに期待をしなくなっていったか改めてわかってしまった。

3本のうち最も最初に制作したのは『対話とは何か』(2023年、12分)で、早稲田大学の哲学サークルの人々が「対話とは何か」について言葉を交わし合う場面を映したドキュメンタリーである。

2本目は『あわい』(2023年、8分)で、『対話とは何か』の半年後に撮影している。2画面に分かれた映像の中で、お互いに見え方の違う2人の物語を描いている。

3本目は『忘れものを取りに』(2024年、8分)で、撮影は2ヶ月前に行った最新作である。主人公の独白に近い言葉が続き、言葉を投げる相手はもはやこの世界のどこにもいないことが中盤以降明らかになる。

言葉を重ねるということ、さらには表現をするということに対し、自分がいかに失望し消極的になってきているかを再認識してしまった。


話は変わるが、私は「いいね」が1つもついていないX(旧Twitter)の投稿が好きだ。
人に見せる気がなく、心のどこかで誰にも届かないことを嘆きつつ、それでも吐き出さずにはいられない言葉の数々が好きだ。
確実に届くとわかっている言葉よりも、そうやって怖々と世界に投げ出された言葉の方が、本当のその人に近い気がするし、切実な言葉であるように思う。
誰にもみせる気がない作品を、田舎で1人作り続けていた頃の孤独を思い出す。
届かないと分かっていても伝えようとせずにはいられない言葉。それは例えば死者に対する祈りにも似たものかもしれない。


冒頭に書いた出来事が、私にとってとても嬉しかったことの理由として、
普段は世間体を装ったベールの中からしか発言していない自分が、つい気を抜いてぽろりと本音を漏らしてしまった時に、どうせそんな言葉は相手に届かないと思っていたところ、思いがけず相手も実はそう思っていたということが分かったからだと思う。

「言葉なんて届かない」
その言葉が届いてしまった。

私が本を好きな理由として、そこには常に「今すぐ目の前の人に届けようとは思っていない言葉」が並んでいるからかもしれない。
すぐに目の前の人に届く言葉なら、それをそのまま伝えてしまえばいい訳で、わざわざ文字にする必要などないのだ。
誰にも分かってもらえない。
そう虐げられて捻くれた言葉たちが、それでもいつか誰かがわかってくれるかもしれないと最後に逃げ込む先が、文章なのだと思う。
そうして本棚の中に逃げ込み、息を潜めている言葉たちが、不意に誰かに見つけられて、その本を読んだ誰かを救うこともある。
それは10年後かもしれないし、100年後かもしれないし、1000年後のことになるかもしれない。
現に、荘子のものとされる言葉さえ、現代日本を生きる我々のもとに届いた。

言葉に失望し、言葉に救われる。
これからもきっとその繰り返しなのだろう。

有名になりたいと思ったことはない。(ものを作ることでご飯を食べたいとは思うが)
それでも、何かを作って発表することを辞められないのは、どうせ誰にも届かないと思っていた言葉が届くような、そんな奇跡が起きることをずっと期待し続けているからだと思う。


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