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行為のベクトル(映画 #オズランド のこと)

いかなる講義においてもUゾーンの席を確保する、先天性すみっこ落ち着く系の人(私です)にとって、スポットライトの中心に立つような、環境が自分に追随するシチュエーションは、できる限り避けたいものです。

小さな女子の多くが歓喜するであろう「今日はあなたがプリンセス」のシチュエーションも、ちょっと言いにくいけど避けたいものです。

「今日はあなたがプリンセス」を既存概念とするような、たとえば「ネズミに持て囃される夢の国」もまた、ちょっと言いにくいけど避けたい場所です。

そんな場所の存在自体を否定するわけではありません。
ただただ「プリンセス」にしないでおくれ、と言いたいだけ。
持て囃されるくらいなら持て囃したい。
けれども夢の国の持て囃す側の世界には、お客さんとの間に決して越えられない透明の分厚い壁がある(と少なくとも私は感じている)。
そこに、避けたさがあります。ありました。

が、そんな夢の国の類いのすべてを、今はちょっと肯定してみたくなっています。


映画『オズランド 笑顔の魔法おしえます。』に登場する熊本県のふしぎの国(遊園地)「グリーンランド」の従業員の方々は、お客さまの非日常を守ることを何よりも、本当に何よりも大事にします。

その姿が
「みんなを笑顔にする仕事って素晴らしいよね♪」
という角度で編集されていたとしたら、いつものように壁の向こう側を素通りするところでした。

でもそうではなくて、笑顔にする側の人たちが、笑顔にする側の人たちどうしで笑顔にし合う物語だった。

笑顔にし合っている従業員さんたちの環がまずあって、お客さんはその外周で、中の環と関わりながら一緒に笑顔になっている。
そんなやり方がアリなら、「プリンセス」にならずとも夢の国の類いに居られる。
透明の分厚い壁が消えました。魔法だな。


「笑顔にする」なんてさらりと書きましたが、「誰かのために何かをすること」は、ありふれていながらも特別で、知っているはずなのにふと忘れてしまったりするものです。

現に“ふしぎの国”は、「誰かのために何かをすること」ができなかった人、自分のための言葉しか持ち合わせていなかった人だけが、笑顔を掴み損ねて肩を落とすシビアな場所でもありました。

ある人の行動を縛るために放たれた「彼」の言葉は、受け止められるはずもないほどのストレート剛速球。
だけど、誰かの行動を促すためにかけられた「彼ら」の言葉は、想像力のオブラートに包まれたかけがえのない一粒。
そして「誰かのために何かをすること」を突き詰めると、どうやら言葉というものから解放されるみたいでした。


遊園地のような非日常を作る仕事に限らず、あらゆる仕事が「企画」から始まります。

笑った顔を思い浮かべてみろ。
誰の顔が浮かんだ?

その顔をどうやったら作れるか、考えてみろ。

……という科白で正しかったかどうかわからないけれど、何を企てるときも誰かの笑顔を想像するだけでいいのだと思うと、纏わりついていたかもしれない重たいものがバリバリと剥がれ落ちていくのを感じました。

日々の瑣末なことに対するデトックス作用高き作品。
エンドロールの端まで楽しませてくれてありがとう。





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黒木彩香
さいごまでお読みくださり、ありがとうございます。

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