育った家庭を手放した話し
去年の夏、7月終わりだったと思う。
私は母親を突き放した。
もう家族に関わるのが辛い。
連絡をとりたくないと。
母親からはその瞬間、謝りたいの連絡が止まらない。
「謝りたい、一度電話できないか」
と連絡が来るが
「謝ってもらいたいわけじゃない。その代わり今まで私が背負っていたものに自分で向き合って欲しい。話すことは何もない」
旦那に隣にいてもらいながら、潰れそうな気持ちをなんとか保ちLINEを返した。
母親と祖母は昔から仲が悪く未だに揉めている。
お互いに憎しみ合いながらそれでも離れることが出来ず、まさに共依存。
3,4年前から母親は働かなくなり祖母に生活費を援助してもらっておきながら、一人で外出も難しいほどの体になった祖母を面倒みると口だけ言って実際は私と妹にさせた。
妹もまた、生活費をすべて祖母に援助してもらっていた。
そして兄もまた、金銭面に困った時には祖母から援助を受けた。しかも母親から背中を押されて。
みんなもういい大人だ。金額も聞いたが何十万とかそんなんじゃない。私が思うより遥かに高額だった。
そして祖母も、母と妹を援助することで自分の存在価値を感じ突き放すことができない。
それでも金銭ばかり頼る母、兄、妹に違和感を感じ、財産の保管場所の把握を私にさせた。
母親は祖母に、
亡くなる時に税金ばかり払うことないようにしと
いて!と言ったらしい。
50も過ぎて生活費をすべて援助してもらい祖母の世話を私と妹にさせておきながら、よくもそんなことを言えるな、と自分の母親ながら呆れた。
でもそんな関係を築いてしまったのも祖母なんだろう。
また、祖母の家は本家らしい。
母親と祖母の共依存に加えて、跡取り問題がずっと置き去りになっている。
今の時代、跡取りをしていくことのが難しいかもしれないが、祖父母の地域は跡取りに厳しい地域。
細かいことは避けるけど、祖母がまだ生きてる間に話し合いをしておかないと、問題が多々おこるのでは?と、私やその他の人からみてもわかる。
それでも向き合えない母親と祖母。
それなら離れればいいのに、離れることも出来なくて私は間に挟まれ続けた。
今でこそ違和感だらけの家族の関係、嫁に行った私が間に挟まれている状況、一人で抱える問題ではないことはわかる。
でも、その時の私は必死になんとか「家族」と言うものを守りたくて、それぞれに掛け合っていい方向に行くようにやりとりしていた。
結果的に突き放したけど、私も一人の人間で母親の子ども。子どもが本心で母親を嫌いになんてなりたくなくて信じていた。
祖母にも幼少期の養育費や学費を、母親ができない代わりにしてもらった恩があった。体が不自由な祖母を守りたかった。
最後の頼みとして、祖母を守りたいからこそ母親への援助にキリをつけて市の介護の話を進めたいこと、母親がそれらを放棄するなら私が引き受けることを話した。
それでも祖母は母親を切れなかった。
そしてまた母親にも、今後祖母に対してどうしていくのか問いかけたが、援助がなくなるのを手放せないことや自立する勇気がないことが分かった。
私は市に手を回した。
市役所や包括センターに全ての事情を説明した。包み隠さずに。私から相談受けたことを隠してもらいながら、祖母の介護認定を済ませた。
そこで私は手をひいた。
母親を突き放す苦しさ
体の不自由な祖母の助けを止める悔しさ
でももう私は限界だった。
幼少期から間に挟まれ続け、ここ3年ほどは掛け合いを頑張ってみたけど変わらない状況と家族たち、衰えていく祖母。
カウンセラーにこの家族の状況を伝えた時に
一人で抱える問題じゃない。
そんなこと抱えて仕事なんてまともにできない。
そう言ってもらえて初めて
私の力不足じゃないんだ、苦しいって言っていいんだって思えた。
市に手を回して祖母の介護認定を済ませたことは、私から母親と祖母へのプレゼントになると言ってもらった。
手放す行動を移す前に、お世話になっているお寺の方と話をした。
そのお寺の方に
あなたはたまたまこの名前を借りてこの家庭に産まれただけ。
だから無理に囚われることなく自分の道を歩けばいい。
自分が育った家庭をどうにも出来なくて、自分を優先することも出来なかった。
家族だから守りたかった。
家族だけど手放すことにした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?